初音ミクという固有名と二次元美少女の図像がもたらすもの

最近の東京は寒い。ぼくはPコートの襟を立てて夜の街を歩く。耳にはイヤフォン、ポケットには第4世代iPod。コードを伝ってぼくの耳に流れてくる音楽は最近のヘヴィローテーションであるRadioheadDaft Punkではなくてしかし、ネット上で拾った初音ミクの音源だ。四分打ちのキックの上をシンセサイザーが乱れ飛び、その合間を人の歌声に似たサウンドが縫うように流れる。

ぼくはiPodのプレイボタンを押して彼女の声を一時停止し、初音ミクについて考える。いやまあ、既にどこかで誰かが考えていることだろうけれど、そんなもの知るかという感じでとりあえず考えるだけ考えてみる。


わざわざ言うことではないけれど、初音ミクは単にDTMソフトウェアでしかない。起動するとVocaloid2 Editorが立ち上がる。ここに音符と歌詞をインプットすることで、指定した通りのサウンドをアウトプットする。既に見慣れたあのツインテールの女の子のイラストは、このソフトウェアを動作させたり操作する部分には関係がない。だから、ここだけで考えると、よく見かける「初音ミクを歌わせる」という表現に若干の違和感を覚えてしまう。なぜなら、ただのソフトウェアが「歌う」というのは、なんだか過剰な文学的表現に見えてしまうからだ。だから、それを許容させてしまうのは、あの女の子のイラストだ。

あの萌え擬人化を消費の前段階であらかじめ取り入れたようなイラストが初音ミク最大の特徴のひとつだろう。そしてそこに初音ミクという名前を与える。これが決定的だ。これによって、初音ミクはソフトウェアであると同時に"キャラクター"となる。この点について詳しく追っていこうと思うのだが、その前に初音ミクを消費することについて考えてみたい。このような初音ミクの在り方は三層の消費が成立する状況を生んでいるように思う。

ひとつはVocaloid2 Editorを用いての創作ベース。これは一番基本的な初音ミクの在り方だろう。もうひとつはあのイラストから喚起されるイメージを用いた創作。二次創作としてのイラストを描くことで、初音ミクという"キャラクター"を消費するということだ。

最後は、その両者を掛け合わせたものに対する消費。ぼくはここに注目したい。それはニコニコ動画でも人気になっている(いた)『恋スルVOC@LOID』とか『私の時間』、『みくみくにしてあげる♪』のような曲たちだ。これらの曲の特徴は、曲の中で初音ミクというソフトウェアを"キャラクター"として表現しているという点だ。

例えば、OSTER project氏の作詞作曲である『恋スルVOC@LOID』は、初音ミク初音ミクユーザに対して自分をもっと上手く使って欲しいという感情を伝える内容になっている。


私が あなたのもとに来た日を
どうかどうか 忘れないでいて欲しいよ
私のこと 見つめるあなたが嬉しそうだから
ちょっぴり恥ずかしいけど 歌を歌うよ


言葉をくれたのなら メロディーと追いかけっこ
でも何か 何か違う! 上手く歌えてない


パラメータいじりすぎないで!
だけど手抜きもイヤだよ
アタックとかもうちょっと気を配って欲しいの
ビブラートで誤魔化さないでよ
そんな高音苦しいわ
もっとちゃんと輝きたいのよ
あなたの力量ってそんなもの?


くちばし氏による『私の時間』も同様に、自分自身を初音ミクというソフトウェアであると認識しているキャラクターが歌いかけてくる。


歌うだけならきっと誰でもできる
わたしはきっと そこらにいない女の子
お話するの ちょっとへたくそだけど
調教次第ね 目指せsuper idol


電脳風味な見た目も人気があるみたい?
もしかしたらオリコン1位も遠くないかもね〜


さあ練習練習 ゆーあーまいますたー
もっともっと上手に歌わせて
お昼休みだって 寝る前だって
いつだってできちゃうの
ニコニコ動画がなくなった
そのときわたしはどうなるの


ねぎー(押入れ行き?)
ねぎー(ヤフオク行き?)
ねぎー(やおや行き?)
ねぎを回すしかないー!


いかも計画氏の『みくみくにしてあげる♪』も同様だ。ソフトウェアをインストールせずにパッケージイラストを見つめるユーザに対して歌いかけるシーンが象徴的だ。



科学の限界を超えて私は来たんだよ
ネギはついてないけど出来れば欲しいな


あのね、早くパソコンに入れてよ
どうしたの?
パッケージずっと見つめてる
君のこと


みくみくにしてあげる
歌はまだね、頑張るから
みくみくにしてあげる
だからちょっと覚悟をしててよね


みくみくにしてやんよ
最後までね、頑張るから
みくみくにしてやんよ
だからちょっと油断してあげて


みくみくにしてあげる
世界中の誰、誰より
みくみくにしてあげる
だからもっとわたしに歌わせてね

これらの楽曲では、いずれも初音ミクが自分自身をソフトウェアであると認識した上で、それでも普通の女の子としてユーザに語りかけてくるような内容になっているという点で共通している。誤解のないように書いておくが、初音ミク関連の楽曲の歌詞はすべてこのようなスタイルで埋め尽くされているというわけではない。むしろこういったタイプの歌詞は少ないのかもしれない。しかし、そのどれもが、ここで挙げたように、似たようなトーンになっていることは注目に値する。そしてこれは、初音ミクという固有名と、あの二次元美少女の図像によってもたらされているのだろうと思う。

伊藤剛氏は図像と固有名が揃うことでキャラクターが成立し、キャラクターが物語の断片を引き寄せるのではないかと語っていた。物語の断片とは、二次創作のことだと思ってもらえればいい。詳細は、ぼくが昔書いたエントリ「東浩紀×伊藤剛対談「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生』へ」を参照してもらいたい。

初音ミクも、固有名と単なる二次元美少女のイラストが組み合わされることで初音ミクというキャラクターとして成立することになった。そこで初音ミクにまつわる想像力が喚起され、彼女の周囲には物語の断片が集積される。それがVocaloid2と組み合わされることで『恋スルVOC@LOID』や『私の時間』、『みくみくにしてあげる♪』のような、初音ミクのキャラクターソングと呼ぶことすらできそうな物語を生み、よりいっそう初音ミクというキャラクターをキャラクターとして立てていっているのではないだろうか。初音ミク周辺の消費は、"えここ"の事例に続いて、伊藤氏の論を補強するものなのかもしれない。

ここでぼくはひとつ思い出す。それは伊藤氏が「キャラの強度」とは"物語を横断する力"だと指摘していたことだ。

「キャラの強度」とは、テクストからの自律性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さであると考えることができる。この「横断性」こそが重要な点なのである。

ここで伊藤氏が書いていることはつまり、あるキャラクターを、どのような作家が、どのような物語に二次創作として用いても、同一のキャラクターとして認識されることこそ「キャラの強度」が高く、物語に対する「横断性」のある状態だということだ。

もちろんそれは初音ミクのイラストにも適用できる。どんなにリアルに描かれても、逆にどんなにデフォルメされても、初音ミクというキャラクターは二次創作作家の作風の差異に耐えうる横断性を持っている。それはこれまでに描かれた多くのイラストを見れば明らかだ。しかしそれだけではない。このエントリで取り上げた歌詞にも同様のことが言えるのではないだろうかと思うのだ。

先述した3曲はいずれも作者が違い、それぞれキャラクターの立ち方(初音ミクの性格)も若干異なる。それは歌詞を読めば顕著に見て取ることができる。例えば『恋スルVOC@LOID』の初音ミクは、ユーザの注意を引こうとするようにツンデレ的な振る舞いをするキャラクターとして描かれる。『私の時間』の初音ミクは、歌を歌うことよりも歌の練習(パラメータの調整)をする時間をユーザと共有すること自体が大切だったという自分の感情に気付き、それを私の時間と呼ぶ。『みくみくにしてあげる♪』の初音ミクは、パッケージを見つめるだけじゃなくて歌わせてもらえればもっとユーザを虜にしてあげると歌っている。

キャラクターの立ち方が異なるということは、それぞれの曲において初音ミクが複数化されている、つまり固有の初音ミクとして描かれているということだ。彼女たちはそれぞれが固有の自律した初音ミクでありながら、すべてをひっくるめて同一の初音ミクとして認識されている。上記3曲を歌う彼女たちの間にはオリジナルとその模造品のような階層関係はなく、それぞれが等価に消費されているように感じる。

もしかしたら『恋スルVOC@LOID』が原典であり、ここに挙げた他の2曲はそこから影響を受けていると考えたほうが妥当だと感じる方もいるだろう。しかし、消費する側はそのような些末なことをほとんど考慮していないような気がする。ニコニコ動画を見る限りではこの3曲で描かれている初音ミクは、それぞれ性格は異なるものの、いずれも初音ミクと認識された上で消費されていることが見て取れるからだ。例えば特定の動画に対して、「この(曲で描かれている)ミクがいちばん好き」などのコメントが書き込まれているのを見かけることがある。

話が若干逸れたので軌道を修正する。

いずれにせよ、ここに挙げた3曲で描かれた初音ミクというキャラクターが、他の曲の二次創作的な消費のもとに発生しているかどうかはあまり問題ではない。重要なのは、これらの曲で描かれている初音ミクには"キャラクターとしての強度/物語に対する横断性"が備わっており、それゆえに異なる作者の異なる楽曲に対してであっても、"初音ミクというキャラクター"が歌っていると消費する者に認識されている点だ。

そこで、次にこの横断性がどこから生まれるのかを検討してみたい。

Vocaloid2を用いた作曲時のことを考えてみる。このとき、このソフトウェアに初音ミクという固有名と二次元美少女の図像が無かったとしたらどうなるだろうか。おそらく先述した3曲のような歌詞やそこで歌われているようなキャラクターは成立しにくい、あるいは成立しなかったのではないだろうか。初音ミクという固有名と二次元美少女の図像がなければ、このソフトウェアは単にDTMソフトウェアでしかないからだ。そのとき作曲者たちは、ただの無機質なソフトウェアと自分たちの関係性をわざわざ物語調に仕立て上げるようなことをしただろうか。それはわからない。しかし、あらかじめ初音ミクという固有名とその図像が用意されていたことで、物語が成立しやすくなっただろうことは推測できる。

以前の東浩紀氏は、キャラクターとは物語を横断する力のことであり、キャラクターの成立には固有名だけあればよい、キャラクターの図像は不要だと語っていた。繰り返しになるが、伊藤氏は固有名と図像が必要だとしていた。先述したエントリでは、東氏・伊藤氏の考え方の違いを「相容れないもの」として捉えていたのだが、今回改めて考えると別のものが見えてきた。これは単に、ディテールの問題なのだ。ディテールはキャラクターの物語横断性を強化する。

想像してみよう。今、ぼくたちの目の前に真っ白い空間が広がり、そこにはいくつかの点があるとする。まず、点が2つある場合。2点は直線を規定するだけだ。ここからそれ以外の情報は得られない。そこにもう1つ点を足してみる。3点あれば平面(三角形)を表現することができるようになる。もちろん3点を同一直線状に配置することで直線を表現することも可能だ。そして4点あれば空間図形(三角錐)を表すことが可能となる。無論、4点すべてが同一平面上にあると考えて、より複雑な平面図形を規定すると考えても良い。

ぼくはここで何を言いたいのか。それはつまり、点の数が多ければ多いほど、そこにある物体の輪郭がより具体的で明らかになるということだ。言い方を換えれば、設定はある程度仔細に与えられたほうが、アウトプットの精度は飛躍的に高まるということになる。巷に溢れる特定の作品の二次創作が、それぞれまったく異なる内容であったとしても、原典の設定を引用することでいずれも同一の作品を参照していると認識されるように。

初音ミクという固有名と、意匠が込められた二次元美少女の図像。ただのDTMソフトウェアに対してキャラクター的なディテールがいくつか与えられることで、初音ミクというキャラクターの輪郭は明確なものとなっていく。輪郭が明確になることで、多くの人が初音ミクに対するイメージを共通のものとして共有できるようになる。それによって初音ミクのキャラクターとしての"強度"が高まり、その結果として二次創作作家が固有の描線や独自のコードを用いても、初音ミクとしての同一性存在感は揺らぎにくいものとなる。だから、初音ミクの強度/横断性は、その固有名と図像からもたらされているのではないかと思う。

このように初音ミクを検討していくと、伊藤氏が指摘していたように図像と固有名がキャラクターを成立させ、キャラクターの強度と物語横断性を担保し、物語を呼び起こす源泉となっているというのは蓋然性が高いことのように思える。

一方で次のようなことも頭をよぎる。

先述したようにディテールの度合いがキャラクターの強度を規定するとして、だとすればディテールが薄い状態、例えば図像がなくともキャラクターが成立したり物語を横断するということも充分にありうるのではないだろうか。以前の東氏は図像がなくてもキャラクターは成立するのではないかと考えていたが、彼が"キャラクター"と呼んでいたものは、おそらくその最小単位のことなのだろう。物語を横断する最も小さな単位がどのようにして生まれるのか、それを彼はしきりに--例えば『コンテンツの思想』などで--気にしていた。

東氏は2007年の新潮10月号に、その『コンテンツの思想』で対談をしていた桜坂洋氏との連名で『キャラクターズ』なる小説を発表している。その中で東浩紀という"固有名"を持った"キャラクター"を登場させていたことには、もしかしたら何らかの関係があるのかもしれない。いや、わからない。ぼくがそう思いたいだけなのかもしれない。いずれにせよぼくは未だ『キャラクターズ』を読んでいない。だからこれは空論に過ぎない。あの作品に目を通した後に、またこのエントリに立ち返るとしよう。

とりあえず現時点でのぼくの個人的な感覚としては、やはり図像がなくてもキャラクターは成立し、物語を呼び寄せるのではないかと思っている。しかし東氏が言うように固有名だけでキャラクターが成立するとは思いにくい。ぼくは、図像がないのなら図像に代わるものが必要になるのではないだろうかと考えているのだ。固有名と、あと何か。2点は直線を規定する。少なくともそれがキャラクターの最小単位なのではないか、と。

最近の東京は寒い。ぼくはPコートの襟を立てて夜の街を歩く。耳にはイヤフォン、ポケットには第4世代iPod。果たして初音ミクに図像がなかったとして、その"キャラクター"は成立しただろうか。キャラクターを生成する最小単位については機会を改めて考えてみたい。ぼくはコートのポケットに手を伸ばして、そこにある第4世代iPodのプレイボタンを押した。コードを伝ってぼくの耳へと音楽は流れ出す。そんなぼくの考えなど知ったことじゃないというふうに、初音ミクはその可憐な電気信号で物語の断片を歌っていた。