初音ミクというキャラクターの行く末

少しばかり間が開いてしまったけれど、以下のエントリの流れに続くものとして書きます。

  1. 『初音ミクという固有名と二次元美少女の図像がもたらすもの』
  2. 『続・初音ミク』

そして後者のコメント欄にてアロハさんという方から以下の指摘をいただきました。

多くのニコ厨にとって、受け入れ難い「設定」は忘れられる。
その事によって共有の「キャラ」が立ってくるというわけです。

アロハさんが書いていることはつまり、「ある設定は生き残り、新たな初音ミク動画でも繰り返し用いられることで初音ミクを彩る設定の一部となっていくが、定着することが難しい設定もある」ということなのだと解釈します。

そういうことはあるだろうなあとは推測していたのだけれど、ぼくの実感として得られてはいなかった。でも、縁あってそういったご指摘をいただけたので、今回はこれを足がかりにして考えてみたい。というかほとんど思いつきの垂れ流しなのだけれど。

例えば初音ミクに対してネギという設定は定着して久しい。らばQのこちらのエントリ初音ミクとネギの関係性について詳しいが、ネギはユーザ主体で生み出された、現在も生き残っている設定のひとつだ。将来的にどうなるかはまた別問題だが、ネギのように生き残っていく設定の影には、傍流と見なされる設定や忘れられて消えていくものたちもあるだろうことはアロハさんのコメントからも推測できる。それはちょうど、自然淘汰のような状況をぼくに想起させる。

そこで一体何が起こるのだろうか。ぼくは想像する。

例えば設定の自然淘汰の果てに、初音ミクが理想的なキャラクターへと変貌を遂げていくということはあり得るだろうか。理想的というのは、例えば、効率良く萌えられるように最適化されているといった状態のことだ。ただこれは、最も萌える要素が初音ミクの設定として生き残るというよりも、萌えない設定が滅びていって、それ以外の設定が相対的に生き残るというほうがイメージとしては近いだろう。つまり、より生存率の高い、萌えるのに効果的な設定だけが残り続けるということだ。しかしそんなふうに考えると、多数決に勝った安定性の高い設定だけが残ってしまって、キャラクターとしての初音ミクがデッドエンドに到達するようなことになりそうな気がしてくる。

自分で書いておいてこう指摘するのもなんだが、どうもそういったことは起こりにくいような気がする。何故ならこの手の要素というのは、ときの流れに応じて入れ代わり立ち代りしながら消費されていくからだ。

そこで別の考え方を導入してみたい。ぼくは「Packaged」(作詞作曲livetune)周辺で見られた消費の流れを思い出す。

初音ミクという固有名と二次元美少女の図像がもたらすもの』で挙げた3曲---『恋スルVOC@LOID』、『私の時間』、『みくみくにしてあげる♪』---は共通して、初音ミクがソフトウェアでありながらキャラクターであるということを歌詞で表現していた。そしてそれは、DTM用ソフトウェアに初音ミクという固有名と二次元美少女の図像が与えられたことで集積した、"物語の断片"なのではないだろうかと伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』を引用しながらぼくは推測した。

さて、この『Packaged』の歌詞も同じく、初音ミクというソフトウェアをキャラクターとして表現している。つまりこの曲も、初音ミクに集積した"物語の断片"と考えることができるのだ。その点では『Packaged』も充分に特徴的なのだが、この曲の消費の過程ではより特殊な動きを観測することができる。以下がその動画だ。

ご存知の方も多いだろうが、この動画のタイトルは『初音ミク 1st Live 「Packaged」』。しらかわまよ氏が作成した素材を元に、動画職人が作り上げたライヴ風のビデオクリップだ。ここにはおもしろい示唆が含まれているように思う。

この動画は初音ミクが"ライヴをしている"という設定で作られている。ただのDTM用ソフトウェアに過ぎない初音ミクがライヴをしているという設定の動画が作られるという状況。この状況は、初音ミクが先述したような"物語の断片"を歌い続けたことで、"歌うキャラクター"として立てられていったことによってもたらされた結果なのではないかと思う。その結果、DTM用ソフトウェアがライヴをするという想像力を、ぼくたちが自然と受け入れられるようになったことで成立しているのではないかと考えられないだろうか。この点を詳しくみてみたい。

以前ぼくは、『恋スルVOC@LOID』、『私の時間』、『みくみくにしてあげる♪』のような歌詞は、いずれも初音ミクが自分自身をソフトウェアであると認識した上で、それでも普通の女の子としてユーザに語りかけてくるような内容になっていると書いた。しかし、これらの歌詞の特徴はそれだけではない。やや同義反復的な言い回しになるが、上記3曲はいずれも「初音ミクというキャラクターが"歌を歌う"ということについて歌った」歌なのだ。

ぼくは思う。ここでは初音ミクというキャラクターに、"歌う"という設定が与えられているのではないか、と。だから彼女は"歌を歌う"ということそのものを歌っている。だとすれば、このときの初音ミクは"歌う"キャラクターとして消費されていると考えることができる。

このような"歌う"という設定が何度も消費されていくことで、初音ミクは"歌う"キャラクターとしてより定着していくという流れを想像することができる。それはつまり、単なるDTM用ソフトウェアに対して、"歌う"という表現を用いても消費する者が違和感を覚えなくなるという意味だ。それが何度も繰り返されることで、初音ミクは"歌う"という設定を与えられたキャラクターから、"歌う"という設定と"キャラクター"が不可分となった"歌うキャラクター"として認知されていくようになるとは考えられないだろうか。それゆえに、初音ミクがさながら歌手やアイドルのように"ライヴをする"という動画が作られても、違和感なく消費されるようになる。

そして、初音ミクが"歌うキャラクター"として消費する者に共通認識された状態になると、先述した3曲のような物語の断片に限らず、どんな歌を歌っても、それが初音ミクというキャラクターの"物語の断片"として認識されるという状況が成立する可能性が出てくるのではないだろうか。

例えば、役者は与えられた役割に応じて多種多様なキャラクターを演じる。言い換えれば、役者という主体がいて、その上から役割というレイヤーを被ることで、彼らはどのようなキャラクターも演じることができる存在だと考えられる。つまり、このときの彼らは二層的な存在となっていると言える。

それに照らし合わせ、初音ミクも"歌うキャラクター"として立つことで、あらゆる"物語の断片"を歌うことのできるキャラクターとなるのではないかとぼくは思うのだ。初音ミクは"歌うキャラクター"という主体であり、その上から"物語の断片"というレイヤーを被ることで二層的な存在となる。そして"物語の断片"のレイヤーを入れ替えることで、あらゆる設定を持ったキャラクターを演じる(歌う)ことができるのではないか、と。

このような観点から、初音ミクに対してライヴ風の動画が作られ得るということは、あらゆる歌詞を初音ミクに歌わせても、それが初音ミクというキャラクターの"物語の断片"になり得るという状況を成立させているのではないかとぼくは思うのだ。

初音ミクというキャラクターの行く末は、そのときどきで設定や物語の断片を入れ替えて歌う、何者にも染まらないキャラクターとなるのかもしれない。