初音ミクをプロデュースするというUGC的消費

1.はじめに
先日公開した以下のエントリで、ぼくは初音ミクをユーザ生成型キャラクター--User Generated Character--として捉えた。

ユーザ生成型キャラクターとは、ユーザがコンテンツを投下していくことで初音ミクというキャラクターがダイナミック(動的)に生成されていくさまを表現したUGC--User Generated Contents--をベースにした言葉だ。けれどその呼び方自体はどうだってよくて、いずれにせよ初音ミクの消費の在り方はこのようなプラットフォームの上に成り立っており、そのため、先行する手法の剽窃やパブリシティへの相乗りといった問題--すなわちパクリ問題−-がそこでは問題とはならないのではないか、というのが上記エントリでぼくの考えていたことだ。

今回は実際に、そのようなプラットフォームの上で、複数のユーザの手によってどのように初音ミクのキャラクター性が立ち上がっていったのか、その経緯を、大雑把にではあるが仮説を立てながら検討してみたい。

2.Vocaloidキャラクター・ソング
まず、初音ミクの消費においてぼくが特徴的だと思うのは、「初音ミクが自らをソフトウェアだと自覚しながら、女の子のキャラクターとして聴く者に語りかけるような歌」が存在することだ。例えば『恋スルVOC@LOID』『あなたの歌姫』『みくみくにしてあげる♪』『Packaged』『えれくとりっく・えんじぇぅ』『ハジメテノオト』『私の時間』『ファインダー』などがその代表的なものであるとぼくは考えている。これらの楽曲は、すべて「週刊Vocaloidランキング」で上位を獲得しているものだ。このように類似したスタイルの歌詞を持つ楽曲がある時期にニコニコ動画上で多くの支持を集めていたということは、初音ミクの消費におけるひとつの特徴だと言えるだろう。

しかしこのようなスタイルの楽曲は一時期は非常に目立っていたのだが、現在では主流だと感じられるほどの目立ち方をしていない。それは、もしかしたらニコニコ動画におけるVocaloidの消費の隆盛に伴って多くの作品が公開されるようになり、上記のスタイルの楽曲の占める割合が相対的に下がったからかもしれない。しかし、これも特徴的だと思うのだが、鏡音リン・レンが登場したときはこのような歌詞を持った楽曲が多く登場するようなことはあまりなかったと感じている。

初音ミクがそうであったように、鏡音リン・レンも自身がソフトウェアでありながらキャラクターであるという歌を多く歌ったとしても不思議はない。しかし、鏡音リン・レンはその最初期、『ジョジョの奇妙な冒険』や『頭文字D』といった有名作品のキャラクターのコスプレをしているかのような、ネタ的な消費をされることが多かったように思う。

このような点から、「初音ミクが自らをソフトウェアだと自覚しながら、女の子のキャラクターとして聴く者に語りかけるような歌」の存在は、Vocaloid周辺の消費における大きな特徴ではあるものの、それが主流となっていたのは一時期のことであり、よってこれらの楽曲における初音ミクのキャラクター性は、Vocaloidのキャラクター性の変遷における過渡期のひとつなのではないかとぼくは考えている。

なお、「初音ミクが自らをソフトウェアだと自覚しながら、女の子のキャラクターとして聴く者に語りかけるような歌」といちいち書くのは長ったらしいので、以後、”Vocaloidキャラクター・ソング”という仮の呼び名を与えようと思う。これは、”Vocaloidであるというキャラクター性”を全面的に押し出した歌というほどの意味だと捉えてもらえればいいだろう。

これから検討を進めていくにあたって、まずは用語を定義しておこう。

3.用語の定義

Vocaloidはキャラクターでありながらソフトウェアであるという二層的な特徴を抱えている。これを分離して検討するにあたって、両者の違いを簡単に表すために、以下の表現を用いたい。

意味としては単純に、前者はソフトウェアとしてのVocaloidを表し、後者はキャラクターとしてのVocaloidを表すというほどのものだ。

次に”Vocaloidキャラクター・ソング”の定義をしておこう。以下の特徴を備えるものを、ここでは”Vocaloidキャラクター・ソング”と呼ぶことにしたい。

  1. そのVocaloidキャラクターがあくまでソフトウェアであるということを、Vocaloidの基本設定や特徴などを用いながら明示、あるいは暗に仄めかしていること
  2. 歌を歌うという行為それ自体について歌っていること

1について言えば、例えば”パラメータ”、”パッケージ”といった、ソフトウェアであることを直接的に示す表現がその特徴だろう。また、『恋スルVOC@LOID』や『私の時間』の歌詞において”おしゃべりが苦手”といった表現が用いられているが、これも、喋らせるとどうしても不自然になりがちなVocaloidソフトウェアの特徴のひとつである。

しかし、”Vocaloidキャラクター・ソング”の成立要件に必ずしも”パラメータ”や”パッケージ”などというキーワードは必要ではない。ソフトウェアであるということを暗に仄めかしている歌詞でも充分だ。例えば『ファインダー』はその歌詞でVocaloidがソフトウェアであることを明示するような言葉を用いていない。しかし「初音ミクというソフトウェアがユーザの見た世界を写し取って歌にする」という歌詞の内容からは、1の特徴を満たしている。つまり、明示的であろうとなかろうと、Vocaloidがソフトウェアであることを示す歌詞が含まれていることが”Vocaloidキャラクター・ソング”には必要だとぼくは考えている。それが1だ。

2についてだが、1のような特徴を備える楽曲の中では、どうしてもVocaloidは”歌を歌うということについて歌う”ことになる。なぜならVocaloidという”ソフトウェア”はあくまで”歌を歌う”ことを主眼として開発されているからだ。1のような歌詞がVocaloidという”キャラクター”に対するキャラクター消費的な運動として発露するため、そこでは”歌を歌う”というVocaloidソフトウェアの存在理由それ自体もVocaloidキャラクターを彩るひとつの特徴として回収されてしまう。これが2だ。

その意味においては、2は1に含めることもできるだろう。しかし、1が明示的であるか否かを問わないのに対して、2はどのような場合でも明示的に含まれることになる。先ほどの『ファインダー』を例にするなら、1については明示的ではないが、2については明示的だということができる。つまり、2だけはいかなる場合も明示的ということだ。そのような点から、ぼくは2を1とは分離・独立させて、”Vocaloidキャラクター・ソング”の特徴として扱いたいと考えている。

以上のような歌詞を持つ楽曲を、ここでは”Vocaloidキャラクター・ソング”と呼ぶことにしたい。また、上記のような点からは”Vocaloidキャラクター・ソング”とはVocaloidソフトウェアの特徴をベースにしたキャラクター消費であると考えることもできるだろう。

4.ニコニコ動画におけるVocaloid消費
では、”Vocaloidキャラクター・ソング”のような歌詞を持つ楽曲は一時期において主流と感じられるほど消費されていたのか。そして、なぜ今ではあまり見かけなくなりつつあるのか。さらに、こういったスタイルの楽曲が登場する以前の初音ミクや他のVocaloidは一体どういった消費のされ方をしていたのだろうか。これらの疑問の答えを探すためにニコニコ動画で関連動画を検索したところ、実に興味深い結果を得ることが出来た。その結果について、ぼくなりの解釈を当てはめて、上記の疑問の回答を探ってみたい。

まず、初音ミクが登場した直後について見ていこう。時期的には2007年8月31日から2007年9月10日頃までのことだ。おもしろいことに、初音ミクが用いられた動画のほとんどすべてがカヴァー曲で占められていた。もちろん動画の総数自体が少ないということもあるのだが、オリジナルの楽曲は滅多に見ることができなかった。これはどういうことだろう。発売日からほとんど間もないから、だろうか?確かにそれは一理あるはずだ。

そこで、ほんの少し観測範囲を広げて、先行するVocaloidソフトウェアであるKAITOMEIKOについても同様の検索をしてみた。するとやはり初音ミク同様に、この時期はオリジナル曲というよりは何かのカヴァーで用いられていることが多いということが分かった。

この状況からは次のように考えられる。それは、当時のVocaloidの消費の方向性がキャラクター消費的な想像力よりも、純粋に電子楽器として指向されていたのではないかということだ。換言すれば、この時期に行われていたのはキャラクター消費ではなくVocaloidエンジンのパフォーマンスを測るベンチマークテストだったのではないかと思うのだ。「果たしてVocaloidは生身の歌手にどこまで近づくことができるのか?」といったことが試みられていた時期なのではないだろうか。それゆえの、カヴァー曲中心の消費だったのではないか。ぼくはそう推測する。

そして2007年の9月中旬以降になると、徐々にオリジナルの楽曲が公開されるようになる。但し、その総数はまだ少なく、なおかつ作曲者が既に作成済みだった楽曲のヴォーカル・パートを初音ミクに置き換えたといった趣のものが多いように感じられた。

しかし、初音ミクありきで作成された楽曲も登場するようになる。中でも『恋スルVOC@LOID』はひとつの契機だろう。これに触発された『あなたの歌姫』が登場し、そして未だにVocaloidランキングの上位に残り続ける『みくみくにしてあげる♪』が公開される。繰り返しになるが、これらは「初音ミクが自らをソフトウェアだと自覚しながら、同時に女の子のキャラクターとして聴く者に語りかける」という”Vocaloidキャラクター・ソング”としての歌詞を備えている。ここに『Packaged』、『えれくとりっく・えんじぇぅ』、『ハジメテノオト』、『私の時間』、『ファインダー』といった楽曲が連なることになる。

そして、個人的な実感としては2007年末を過ぎた頃から、Vocaloid周辺の楽曲は多様性を増し、”Vocaloidキャラクター・ソング”があまり目立たなくなってきたように感じている。

ここまでの流れから、Vocaloidのキャラクター性の変遷について検討をしてみよう。

5.Vocaloidキャラクター消費の変遷
先述の通り、最初期の初音ミクはカヴァー曲を歌うことが多かったが、これはモデリングに近いものがあるのではないだろうかとぼくは考えている。モデリングとは、簡単に言ってしまえばある対象をロールモデルとしてその行動や様式を真似る行為全般のことだ*1。人間の成長過程で両親や友人の言動を真似たり、あるいは自分の憧れのミュージシャンと同系統のファッションに身を包むといった行為がモデリングに該当するとされる。

もう一度繰り返そう。2007年9月初頭まで初音ミクの関連動画は既存楽曲のカヴァーが大半を占めていたが、これを初音ミクによる既存楽曲のモデリングであると仮定してみたい。これは2つの意味でのモデリングとして考えることができる。第一に、パラメータにおけるモデリング。これはVocaloid2エンジンのベンチマークとして、「生身の歌手にどこまで近づくことができるのか」ということをモデリングするということだと思ってもらえればいいだろう。

第二の意味だが、ぼくはこちらを重視したい。それは、まだ初音ミクというキャラクターのキャラクター性が安定していない時期に、それを補うために既存楽曲の歌詞(キャラクター)をモデリングするという意味だ。まだ作り手側が初音ミクにどのようなキャラクター性を備えさせれば良いのかという照準を定めることができていなかったため、既存楽曲をカヴァーすることで、空の器である初音ミクに仮初めのキャラクター性を与えているといった状況だ。このように考えれば、最初期の初音ミクがカヴァー曲を中心に消費されていたことは、初音ミクのキャラクター性の発露の前段階として捉えることもできよう。

そして、『恋スルVOC@LOID』以降で初音ミクのキャラクター性が効果的に用いられることになる。そのキャラクター性とは、初音ミクがあくまでDTM用の”ソフトウェア”であり、なおかつそこに与えられた”固有名”と”イラスト”で構成されているという点だ。これらはソフトウェア”初音ミク”に元来備わっている基本的な設定であり、この不変の出自を依り代とすることで、作り手たちは初音ミクの不安定なキャラクター性を強固に補うことが可能となる。

これらの設定が効果的に利用されることで、初音ミクは自らをソフトウェアだと自覚しながら、なおかつ女の子のキャラクターとして聴く者に語りかけるような歌を歌うようになる。それこそ、ぼくが”Vocaloidキャラクター・ソング”と呼んでいるものだ。『恋スルVOC@LOID』、『あなたの歌姫』、『みくみくにしてあげる♪』、『Packaged』、『えれくとりっく・えんじぇぅ』、『ハジメテノオト』、『私の時間』、『ファインダー』といった楽曲は、そのような想像力に支えられているのではないだろうかと考えられる。

ここで”Vocaloidキャラクター・ソング”の定義に振り返ろう。Vocaloidキャラクター・ソングとは以下の特徴を持つと指摘した。

  1. そのVocaloidキャラクターがあくまでソフトウェアであるということを、Vocaloidの基本設定や特徴などを用いながら明示、あるいは暗に仄めかしていること
  2. 歌を歌うという行為それ自体について歌っていること

上記の楽曲は”Vocaloidキャラクター・ソング”の定義に漏れず、いずれも「初音ミク自身が歌を歌うという行為それ自体について歌っている」歌でもある。そこで次に、初音ミクはこのような歌詞を持つ楽曲を歌い続けることによって、徐々に”歌を歌うもの”として認識されるようになっていったのではないだろうかという指摘を試みたい。というのも、これは実際の歌い手も同じだからだ。すなわち、歌詞は歌い手のキャラクター性を定義する。もう少し具体的に見ていこう。

歌詞とは、楽曲に込められた短編の物語であるだけでなく、その歌い手による「どういう歌を歌うのか」という宣言にもなり得る。なぜなら、そういった歌を受け取るぼくたちは、「歌い手とは表現者であり、だから内的な感情をそのような歌詞によって表現しているのだろう」と考えることができてしまうからだ。あくまで事実関係とは無縁に、ぼくたちは歌い手をそう理解することができてしまう。

そのため、歌詞はそれを受け取る人々に「あの歌い手はどのような歌を歌う存在だ」という先入観や固定観念を与えてしまう可能性を持つ。ここでトム・ヨークを例に挙げよう。Radioheadの1stアルバムである『Pablo Honey』は、自己と他者の対比を描く自意識に苛まれた者の物語だった。

このアルバムからは「他者は眩いばかりに美しい、けれど自分はどうしようもない屑だ」という歌詞を持つ”Creep”がアメリカとイギリスで大きな成功を収めることになる。有体に言ってしまえば”Creep”は敗者の歌なのだけれど、このヒットは単にこの曲がポップ・ミュージックとして優れていたからという理由だけではなく、そういった歌詞を求める1990年代前半の時代の空気に支えられていたことにも大きく起因していた。


Radiohead / Creep

I wish I was special,
You’re so fucking special
But I’m a creep, I’m a weirdo
What the hell am I doing here?
I don’t belong here

以下は、上記引用部分のぼくによる意訳だ。

自分が特別な存在だったら、と思う
きみみたいにとびきり特別な存在だったら
でも実際はゴミみたいな、取るに足りない存在でしかない
ぼくは下らない人間だ
こんなところで一体何をしているんだろう?
ここはぼくが居てもいいところじゃないのに

一方で、トム・ヨークは何も”Creep”のような歌詞ばかりを歌っているわけではない。当時、”Creep”の後に発表したシングルはいずれも楽曲として”Creep”に劣っているというわけではなかったが、けっきょく”Creep”のような成功を収めることはなかった。なぜなら、時代がRadioheadに求めたものは第2の”Creep”だったからだ。図らずも、”Creep”はRadioheadと受け手の間にギャップを生んでしまう。このようにして彼らは”Creep”という呪縛に囚われた。

トム・ヨークはこの状況を『The Bends』に収録された”My Iron Lung”で次のように歌う。


Radiohead / My Iron Lung

This, this is our new song
Just like the last one
A total waste of time
My iron lung

これを訳せば次のようになるだろう。(意訳を含む)

「これがぼくたちの新曲です。以前発表した曲とほとんど同じです(なのできっと気に入ってもらえると思います!)」
とんだ時間の無駄
これがぼくの鉄の肺

ここで歌われている「鉄の肺」とは生命維持装置のメタファーである。生命維持装置を付けられた人間は、たとえ本人が健康だろうと自由に動くこともできないだろう。つまり”My Iron Lung”とは、”Creep”の大ヒットがミュージシャンとしての自身を延命する生命維持装置でありながら、同時に自らを縛る枷でもあるということを歌っているのだ。

若干脇道に逸れてしまったかもしれないので、話を戻そう。ここで指摘したかったことは、歌い手は楽曲次第で「どのような歌を歌うものなのか」という認識を人々に与えてしまうということだ。ちょうど、Radioheadが”Creep”のような敗者の歌を歌うバンドだと大衆に認識されてしまったように。そして、こういった状況は初音ミクに関しても同じではないだろうかとぼくは考えている。すなわち、Vocaloidキャラクター・ソング=「歌を歌うという行為それ自体についての歌」を歌い続けて、そのいずれもがニコニコ動画上で広く消費されることで、初音ミクは徐々に”歌を歌うもの”としてのキャラクター性が確立されていったのではないか、と。

Vocaloidキャラクター・ソングの消費によって”歌を歌うもの”=Vocaloidソフトウェアという不変の出自がVocaloidのキャラクター性として立ち上がる。”歌を歌うもの”とはVocaloidソフトウェアの存在理由でもある。それが初音ミクのキャラクター性として立ち上がることで初音ミクというキャラクターのベースとなり、そのベースの上で初音ミクがどのような”歌詞”=”物語の断片”を歌ったとしても、すべてが”初音ミクというキャラクターの歌”であると認識されるようになる。それゆえ、もはや「初音ミクが自らをソフトウェアだと自覚しながら、同時に女の子のキャラクターとして聴く者に語りかけるような歌」、つまりVocaloidキャラクター・ソングは不要となり、作り手ごとに異なる個別の”歌詞”=”物語の断片”= ”作り手ごとに異なる、Vocaloidの個別のキャラクター性”へと消費の対象がシフトしていくのではないだろうか。その結果、Vocaloidキャラクター・ソングは一定の期間に隆盛したのち、あまり目立たなくなってきているのではないかと推測する。

そしてそういった二層的なキャラクター性は、初音ミクの消費を通じて他のVocaloidキャラクターにも波及していく。KAITOMEIKO鏡音リン・レンは「ソフトウェアでありながらキャラクターである」という歌をそれほど必要とせず、”歌を歌うもの”としてのキャラクター性を備えるようになる。その結果、Vocaloidたちは”歌を歌うもの”というレイヤーの上層に、まるでコスプレでもするかのように、どのようなキャラクター性をも乗せることができるようになる。

鏡音リンについて具体的に見てみよう。彼女は発売された当初、”Vocaloidキャラクター・ソング”よりも、むしろ何かのコスプレをしているような楽曲を歌うことが多かった。例えば『ジョジョの奇妙な冒険』や、『頭文字D』『ドラゴンクエストIV』。特徴的なことは、これらの動画のイラストは、楽曲の元ネタとなっている作品のキャラクター性を取り込みながらも、鏡音リンとして描かれている点だ。その点において非常にコスプレ的だと言えるし、あくまで鏡音リンでありながら、その表層を作り手ごとに異なる個別の”歌詞”=”物語の断片”= ”作り手ごとに異なる、Vocaloidの個別のキャラクター性”が覆っているという状況からは、ぼくが指摘するVocaloidの二層的なキャラクター性にも当てはまると考えられる。

6.初音ミクをプロデュースするというUGC的消費
ここまでをまとめておこう。

初音ミクのキャラクター性は、空洞化していたキャラクター性の座をモデリングによって埋めることで始まる。次に”ソフトウェア”という自身の形態を仮初めの依り代とすることで、キャラクター性を芽生えさせ、その結果生まれたVocaloidキャラクター・ソングを歌うことで徐々に”歌を歌うもの”として認識されるようになる。そして、その流れはVocaloidのキャラクター性を二層的な分離へと押し進めることになる。それゆえ、”歌を歌うもの”というベースキャラクターの上を”歌詞”=”物語の断片”=”作り手ごとに異なる、Vocaloidの個別のキャラクター性”が覆うようになる。

Vocaloidたちがこのような二層構造を抱えるようになったとき、もはや作り手たちは単なるコンポーザではなく、Vocaloid消費の総合的なプロデューサになるのではないかと思う。つまり楽曲の上に乗る歌詞や動画などを含めて、Vocaloidと一個の作品に対する総合的な世界観をプロデュースしているという意味だ。そして、それが”物語の断片”=”作り手ごとの個別のVocaloidキャラクター性”として機能する。

これは『アイドルマスター』のMADが準備した土壌かもしれない。いま、ニコニコ動画上でVocaloidを用いて楽曲を発表するコンポーザたちは”P”と呼称されるが、これはVocaloid消費の流れが『アイマス』の消費とは決して無縁ではないことを示すものだろう。

ここまで検討をしてきたことから、ぼくはVocaloid周辺におけるぼくたちの消費を次のように考えている。すなわち、現在のVocaloid消費とは、”歌を歌うもの”としてのVocaloidをプラットフォームとして、その上を覆う”歌詞”=”物語の断片”=”作り手ごとに異なる、Vocaloidの個別のキャラクター性”をプロデュースし、ときにそれを入れ替えるように消費するといったUGC的な行為なのではないか、と。

*1:実際の行為に及ばなくても、ロールモデルの行為から自身の行動の最適化を図るという場合も含む