「ある日突然現れた女の子と◯◯し始める」アニメやラノベと社会の関係についての一考察

1.はじめに
本稿は以下のエントリの派生として記述されたものとなる。なお、以下のエントリは読まなくても本エントリでの考察の流れを追うことは充分に可能であることを予め記しておく。

涼宮ハルヒという名の物語の永続システム

まず、上記のエントリについて簡単に説明をしておこう。ここでは2つの視点が混在している。話の流れはそのうちの1つ--涼宮ハルヒというヒロインには物語を永続させる機能があるという点--について分岐していって結ばれており、枝分かれした残り1つの議題--なぜ「ある日突然現れた女の子と◯◯し始める物語」が最近多く見られるのか--については放ったらかしになっていた。というわけで残りの部分についての考えをまとめてみたい。その過程では、いくつかの作品の設定を参照しながら紐解いていくことになる。ネタバレを気にされる方は気をつけて頂きたい。

繰り返しになるが、そもそもの発端は、なぜ"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"が近年多く見られるのかという状況認識にある。そして、そのときの女の子には主人公が持っていない"特殊な力"が備わっていて、それによって物語が駆動されているのではないかというところまでが、前回のエントリで示していた範囲だ。

まず、"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"について定義を明確にしておこう。その形式は次のように説明することができるだろう。

  1. 主人公はごく普通に生活を送っている
  2. ある日突然、女の子が主人公のもとに現れる
  3. 女の子には特殊な力が備わっている
  4. 女の子の特殊な力が物語を駆動し、主人公の生活が徐々に変化していく

大雑把にいって、"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"はこのようなテンプレートで形成されているといえるだろう。次に、その具体例をいくつか挙げてみよう。なお、ここでは議論が些細な隘路に入り込んでしまうことを避け、なるべく射程を広げて検討をしたいと思っている。よって、ここでは対象をある程度有名ないくつかの作品に限定して考察を進めるつもりだ。具体的には『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流、原作2003年/アニメ2006年)、『狼と香辛料』(支倉凍砂、原作2006年/アニメ2008年)、『かんなぎ』(武梨えり、原作2006年/アニメ2008年)の3作品が対象となる。

ここに挙げた作品は、いずれもヒロインとの突然の出会いによって幕を開ける。主人公は彼女と行動を共にするようになるが、彼女はごく普通の人間にはない超常的な力を備えていたり、そもそも人間ではなかったりということが物語の経過に従って明らかとなる。状況を表形式で整理すると以下のようになる。

作品名 主人公 ヒロイン ヒロインの特殊性 一緒に始めること
涼宮ハルヒの憂鬱 キョン ハルヒ 世界改変能力 不思議を探す部活
狼と香辛料 ロレンス ホロ 狼の化身 ホロの故郷探しの旅
かんなぎ ナギ 産土神 ナギの自分探し

いずれもヒロインに関係する言葉が作品名に冠されているのは興味深い点だろう。『涼宮ハルヒ』シリーズはヒロインの名前そのものだし、『狼と香辛料』は狼という単語がホロを表している。では『かんなぎ』についてはどうだろうか。"かんなぎ"という語は"巫"を意味する。つまり"巫女"である。

巫(ふ、かんなぎ)は、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。
シャーマニズムによるシベリア、アメリカ原住民、アフリカなどにみられるシャーマンも同様である。
自らの身に「神おろし」をして神の言葉(神託)を伝える役目の人物を指すことが通例である。古代の神官は、ほぼ巫と同じ存在であった。祭政不分の社会であれば、彼らが告げる神託は、国の意思を左右する権威を持った。

さて、表で示したとおり、『かんなぎ』のヒロイン「ナギ」は産土神であり、巫女とは関係がないように思える。しかし、彼女は二重人格とでもいうべき様態を備えている。例えばマンガ版第二十幕などを見れば明らかだが、彼女はひとつの身体に「俗っぽいナギ」と「神性を感じさせるナギ」という二面性を内包している。物語としては「俗っぽいナギ」がヒロインに該当し、「神性を感じさせるナギ」はまれに「俗っぽいナギ」を経由して主人公の前に現れる。つまりここでは、ナギ自身が神でありながら"巫女"のような状態となっていることが分かるだろう。それゆえに、『かんなぎ』というタイトルは「ナギ」を表していると考えることができる。

少し脱線したように見えるかもしれないので話を整理しておこう。ここでぼくが指摘したかったことは、これらの作品にはタイトルそのものがヒロインと密接に関わり合っているという共通項があるという点だ。この点においても、ヒロインを中心的に物語が展開されているということが見て取れるのではないだろうか。

少し前置きが長くなってしまったが、このような認識を前提としながら、なぜ「ある日突然現れた女の子と○○する物語」が近年多く見られるのかという点について考えてみたい。このエントリでは、その状況が一体何を表象しているのかを検証し、指摘するつもりだ。

検討を進めるにあたって、まずは"特殊な力を持ったヒロイン"というキャラクター造形について考えてみたい。その構造を細分化すれば、「特殊な力を持ったヒロイン=特殊な力+ヒロイン」ということになる。これだけだとそのままじゃないかという感じだが、分解したことには一応意味がある。ここでは"ヒロイン"は置いておいて、まずは"特殊な力"から考えてみたい。先述したように、この"特殊な力"こそが物語を駆動するトリガーとなる。そしてぼくは、時代によって主人公が"特殊な力"を手に入れる契機に違いが表れているのではないかと考えている。まずは90年代前半までの少年マンガをターゲットにして、考察してみよう。

2.90年代前半までの物語類型

90年代の前半までの少年マンガやアニメにおいては、"特殊な力"とそれを手に入れる契機の間に明確な因果関係が存在していた。例えば『幽遊白書』や『ドラゴンボール』といった作品では修行や仲間の死(場合によっては自らの死)といった明らかな契機を経由することで"特殊な力"を手に入れたり、さらにはその力を高めるといった描写が見られた。これらは端的にいって、努力によって自らの能力を高めるとか、ある出来事を経験することで一段階レベルアップするというような描写である。そして主人公が手に入れた力で敵を倒すことによって、新たな敵が何らかの理由で主人公のもとに呼び込まれ、その新たな敵を倒すために主人公はさらなる努力を費やす。そこでは主人公自身の強くなりたいという意思や、世界を守りたいという願いによって"特殊な力"が主人公に付与されているという構図が見られる。そして、新たな敵の登場と主人公のさらなる努力が二重螺旋のように絡み合うことで、「力のインフレーション」を引き起こし、物語が駆動され続ける。少年マンガなどでよく見られるトーナメントシステムは、大まかにいってこのような構造を抱えている。

上記のように、90年代前半までの作品には特殊な力とそれを手に入れる契機の間に明確な因果関係が成り立っている。それはひと言でいって、努力を契機とした能力獲得とでも呼べるものだろう。努力によって敵に打ち勝つという物語の流れはごく自然なものであるため、ぼくたちはそこに相当な因果関係を見ることができるし、それを自然に受け入れることができる。

ここで一度、自分自身で自分の考えにカウンターを入れておこう。この時期に、努力を契機とせずに"特殊な力"を手に入れているというような作品はないのだろうか。そういった作品を含めて検討しておく必要があるのではないだろうか。ここで新たな例を導入しよう。それは『うしおととら』である。

うしおととら』では、特に努力といったものは描写されずに、主人公は偶然のような状況で"特殊な力"たる獣の槍を手に入れている。確かに主人公は、その槍を自身が入手することに関する、ある運命的な出来事を事後的に経験することになる。そのエピソードを通じて、ぼくたちは彼が槍の使い手となることに相当の理由があったと窺い知ることができるが、そこには努力などを見て取ることは難しい。

ドラゴンボール』と『幽遊白書』、そして『うしおととら』はいずれもも90年代を代表する少年マンガである。しかし、前の二作品と後者の間では隔たりがあるように思える。前者は努力などの理由に基づいた成長が描かれるのに対して、後者はそういったものを省いて、代わりにそこに運命を当てはめているように見えるからだ。しかし、両者を結びつけるものがそこにはあるとぼくは考えている。それは「大きな物語」の存在だ。

ここで『ドラゴンボール』と『幽遊白書』、『うしおととら』を結びつけるために、ひとつの補助線を引こう。参照するのはドイツの社会学者・経済学者であるマックス・ヴェーバーの考察である。

3.あらかじめ決定された成功と、それを補強する後天的な理由

マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、資本主義とプロテスタントの興味深い関係を指摘している。それは次のような流れだ。まず、その人間が救済されるかどうかは、神によってあらかじめ決められているという予定説の考えが基盤となる。つまり、現世で善行を積み重ねても、贖宥状を購入することでも、自らが救済されるかどうかを後天的に変えることができないとされる。余談ではあるが、この思想はカトリック教会の腐敗に対する反発から生まれている。具体的にトリガーとなったのは、教皇レオ10世の布告によってサン・ピエトロ大聖堂の建築の資金集めに贖宥状が使われたことだ。これを契機として、宗教改革の口火が切られる。そのなかで、ジャン・カルヴァンが上記の予定説を展開した。

しかし、この予定説の考え方はプロテスタント自身を厭世観に導きかねない。なぜなら、自らが救われないとあらかじめ決められているかもしれないが、その場合もそれを現世での善行によって覆すことはできないからだ。そこで、ここに逆説的な論理が導入される。それは、神によってあらかじめ救済されると決められるほどの人間は、現世でも人生の成功をつかむはずであるというものだ。そして、人生の成功は善行を積み重ねることによって達成される。職業は天から与えられた天職であり、これをまっとうすることが善きこととされる。これによって、ひとびとは自らが救済に値する人間であることを自ら信じるために労働に励むことになる。以下、引用を参照しながら詳しく見ていこう。

したがって、善行は、救いをうるための手段としてはどこまでも無力なものだが--選ばれたものもやはり被造物でありつづけ、その行うところはすべて神の要求から無限に隔たっているからだ--選びを見分ける印しとしては必要不可欠なものだ。救いを購いとるためのではなく、救いについての不安を除くための技術的手段なのだ。(中略)ところでこれは実際には、結局、神はみずから助ける者を助けるということを意味する。つまり、往々言われるように、カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを--正確には救いの確信を、と言わねばなるまい--「造り出す」のであり、しかも、それはカトリックのように個々の功績を徐々に積みあげることによってではありえず、どんな時にも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一のまえに立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ。

そして、プロテスタントにとって善行とは労働と切り離すことができない。

ところで、神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の誡めに適い、その目的に合致するように編制されていることを欲し給うからなのだ。カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら「神の栄光を増すため」のものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる。

さらに、カルヴァンは「現在の職業は神から与えられたものである」という天職の観念を打ち出している。かくして、プロテスタントは「救済」というあらかじめ決定されたものを、自らが手に入れるに値すると後天的に確信するために、自らの労働に従事する。このようなプロテスタントの思想が幅広く共有されたことによって、人々は財をなすようになる。それが資本主義の発展に作用しているというのが、ヴェーバーの指摘したものだ。

ここで話を戻そう。ぼくが指摘したいことは、90年代前半までの少年マンガにおける「"特殊な力"の獲得」は予定説と似ており、それが広く共有されている状況はヴェーバーの考察した資本主義の精神によく似た構図だということだ。『ドラゴンボール』にせよ『幽遊白書』にせよ、一見すれば主人公が努力の結果として"特殊な力"を手に入れて、勝利を収めているように見える。しかし、これは順序が逆だとぼくは考える。なぜなら、主人公たちは物語の要請上、あらかじめ勝利することが決定づけられているからだ。そのために、主人公は必ず"特殊な力"を手に入れなければならない。言い換えれば、主人公の努力は決して裏切られることなく、特殊な力を手に入れることが事前に約束されている。このように考えると、90年代前半までの少年マンガの主人公とはあらかじめ成功することが決定された存在だといえるだろう。確かに物語の途中途中で敗北を喫することはあるが、最終的にはそれを糧にして、敵に打ち勝つ。それは一見すると努力にも似たものではあるが、単なる演出、もっとはっきりいえば物語を継続させるためのトーナメントシステムに過ぎない。『幽遊白書』が物語の最後で、そこから遊離していくことで物語を閉じている点はまさしく象徴的である。

また、これらの作品において、主人公のライバルたちも主人公と同じように努力を重ねるが、けっきょく主人公には敵わないという描写が多く見られることも同じく象徴的といえるだろう。クリリンヤムチャ、桑原和真では、悟空や浦飯幽助には勝てない。それは救済される者とされない者があらかじめ決定されている予定説と同じように、最初から覆らない構図なのだ。ふたたび繰り返そう。90年代前半までの少年マンガの主人公たちは、努力によって特殊な力を手に入れて勝利するのではない。彼らの勝利は最初から決まっている。では彼らの努力は何のためにあるのか。それは次のように説明できるだろう。つまり、「主人公は勝利に値する」とぼくたちが納得できるだけの合理的な理由を、後天的かつ遡及的に獲得するために、彼らは努力をするのだ、と。それによって彼らは勝利を決定づけるための"特殊な力"を手に入れる。

うしおととら』も、この流れで考えれば同じ文脈に配列することができるだろう。主人公である蒼月潮は特に努力などをせずに、"特殊な力"たる獣の槍を手に入れ、それを使いこなす。彼のライバルたちは槍の使い手となるために主人公よりも努力を重ねているという描写がなされるが、彼らが槍の使い手として槍に選ばれることはない。主人公が槍の正統な使い手であるということは、彼の母親が"お役目様"であり、彼女が見た「潮と名付けた自分の子供が獣の槍を振るう」という夢によって運命的に補強される。このために、主人公とライバルの間の序列は覆ることがない。

ドラゴンボール』、『幽遊白書』、『うしおととら』の3作品で基底となっているのは、先天的に確約された主人公の勝利である。しかし先天的に確定しているという状況をそのままさらけだすのは、あまりにも身も蓋もない。予定説のように、「才能を持つ者」と「持たざる者」が到達する結果には覆らない序列があるということを明らかにしてしまうからだ。だから、『ドラゴンボール』や『幽遊白書』では、その先天性を覆い隠すために「努力」というヴェールが後天的に用いられる。『うしおととら』においては「運命」がそれに該当する。それらによって、彼らは成功という結果を手にするに相応しいという理由付けが事後的になされる。

このように考えると、いずれも勝利があらかじめ確約されている中で、それを合理的に説明するもっともらしい理由が後付けで付与されているとみることができるだろう。そして、後付けの理由を努力と呼ぶか運命と呼ぶかは、あまり問題ではない。なぜなら、主人公が勝利を手に入れるという結果はいずれにせよ不変だからだ。その状況は、あらかじめ救済される者とされない者は決定されているとするカルヴァンの予定説に等しい。

しかし、ここで次のような疑問が浮上してくるかもしれない。それは「日本はプロテスタンティズムが支配的な文化圏ではない。そのため、上記のような提言をはたして日本の少年マンガにおいて一般化できるのか」という疑問だ。確かにここまでの議論をプロテスタンティズムに根差したものと限定的に考えた場合、一般化はできないだろう。それはぼくもそう思う。だが、そもそも普遍的な意味における「努力」と「結果」の関係は、予定説とよく似たものであるということは看過できないはずだ。

ぼくたちは経験的に次のようなことを知っている。すなわち、どれだけ努力をしても必ずしも結果がついてくるとは限らない、ということを。しかし、努力なしで結果がついてくると素朴に信じることも場合によっては--特に自分の力量以上のことにチャレンジする場合などは--難しい。だからこそ、ぼくたちは自らの結果がより良いものとなることをあらかじめ信じて努力を重ねるのではないか。つまり、このような考え方はプロテスタンティズムにおける予定説に限ったものではなく、普遍的なものなのではないだろうかとぼくは思う。そして、ぼくたちが人生において何かを勝ち取ったとしても、それが努力の結果によるものなのか、運命的な何かが引き寄せた結果なのか--運命というものがあると仮定して、という留保付きだが--は個々人が判断すればいいことだろう。なぜなら過程よりも結果を得ることこそがぼくたちの目的のはずだからだ(過程を重視することは単なる自己目的化でしかない)。

この予定説とよく似た考え––努力によってより良い結果を得る––は、高度経済成長期以降の世界観、つまりは大きな物語としてひろく共有されていた。そして、それが90年代前半までの少年マンガにもその感覚が色濃く反映されていたのではないかとぼくは考える。ちょうどプロテスタンティズムの倫理が資本主義の発展に作用したというヴェーバーの指摘のように、努力によって結果を手に入れるという共通認識が、少年マンガにも影響したのではないだろうか。主人公たちは、何らかの契機を経由したのちに"特殊な力"を手に入れているように見えるが、それはあらかじめ約束された結果である。しかし、あらかじめ約束された結果だから、という理由では身も蓋もない。その状況を後天的に補強するために努力、あるいは運命といった描写によって主人公たちは"特殊な力"を入手する何らかの理由を与えられる。そういった想像力が主流作品に見られるのは、"努力によってより良い結果を手に入れることができる"という「大きな物語」が、90年代前半にこそいまよりもひろく共有されていたからではないだろうか。以上が、マックス・ヴェーバーを補助線とした『ドラゴンボール』、『幽遊白書』、『うしおととら』に共通する"特殊な力"と「大きな物語」に関する考察である。

まとめよう。

ここまでで、ぼくたちは次の2点を見てきた。まず第1に、"特殊な力"はトーナメントシステムと絡み合うことで物語を駆動しているという点だ。『ドラゴンボール』や『幽遊白書』、『うしおととら』における"特殊な力"は戦うための力として発現する。主人公がその力を用いて敵に打ち勝つことで、さらなる敵が引き寄せられ、物語に新たな局面を導入し続ける。第2の点は、主人公が"特殊な力"を手に入れるときには、そこに何らかの理由が後天的に付与されているという点だ。第1の点を踏まえれば、主人公の"特殊な力"は物語を駆動させるために本質的に不可欠なものとなる。である以上、本来的には努力などの結果として事後的に手に入れるはずの"特殊な力"は、主人公に付与されることがあらかじめ確定した状況となる。その転倒した状況を本来の順序に見せるために、事後的に努力や運命などの何らかの理由付けが導入される。それは予定説と同様の構造だといえるだろう。そして予定説における職業倫理の意識は、高度経済成長期における「大きな物語」とよく似たものである。ゆえに、『ドラゴンボール』、『幽遊白書』、『うしおととら』といった90年代前半までの少年マンガには、共通して「大きな物語」の影響が支配的だったのではないか。

ここまでは、90年代前半までの少年マンガにおける"特殊な力"と物語の関係を見てきた。では、ゼロ年代以降の作品についてはどうだろうか。次にその点を追っていこう。

4.外部モジュールとしてのゼロ年代の"特殊な力"

ゼロ年代においても、もちろん上記のように、見かけ上の努力などによって"特殊な力"を手に入れるという描写がなされた作品は存在する。しかし、努力の重みとでもいうものが、あまり感じられないように見える作品もある。例えば『HUNTER×HUNTER』においては、ゴンやキルアといった主人公たちとアモリ3兄弟やズシといった脇役の間には、努力程度では絶対に覆らない才能の序列が存在することが明確に描写されている。そこでは、90年代前半までの少年マンガがヴェールによって覆い隠していたものが明らかになっているように感じられる。これをいまの社会、すなわち格差社会と結びつけて検討することもできるかもしれないが、それはまた別の機会に譲り、話を戻そう。

確かに、主人公が努力のようなものによって戦うための"特殊な力"を手に入れるという作品はいまだ存在している。一方で、そこにはポストモダン的な多様性も見ることができるのではないかとぼくは感じている。そのひとつこそが、"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"、つまりヒロインに"特殊な力"が備わっており、彼女が主人公のところにやってくることで物語が駆動されるという形式である。主な作品としては、既に例示した『涼宮ハルヒ』シリーズ、『狼と香辛料』、『かんなぎ』が該当する。いずれの作品においても主人公は平均的な生活を送る人物として描かれている。そこにヒロインが介入し、彼女の"特殊な力"によって物語が駆動されていく。このような共通した構造がこれらの作品には見られる。確かに『かんなぎ』の仁は"ケガレ"と呼ばれる現象を見て、触れることができるという点で特殊であるが、彼自身の人生はそれによって駆動されているということはなく(例えば突然異世界に放り込まれるとか)、普通の学生生活を過ごしているという点でやはり平均的だといえるだろう。。

このような作品は90年代前半までの少年マンガとは様相が異なる。『ドラゴンボール』や『幽遊白書』のような作品は主人公に"特殊な力"を宿らせることで物語を駆動しており、その"特殊な力"を主人公に備えさせるために何らかの理由付けが事後的になされているということは、いままで見てきたとおりだ。しかし、『涼宮ハルヒ』シリーズや、『狼と香辛料』、『かんなぎ』に至っては"特殊な力"がヒロインに備わっている。これらの作品ではヒロインとの突然の出会いの結果として、主人公の平均的な生活に変化が生じるという点に特徴がある。

冒頭でぼくは、ゼロ年代における「"特殊な力"を持ったヒロイン」とは「"特殊な力"+ヒロイン」であると示した。そして次に、90年代前半までの少年マンガを例に、"特殊な力"が主人公に備わっているケースを見てきた*1。このように2つの時代の少年マンガライトノベルを比較すると、時代の変遷とともに"特殊な力"が主人公の「内部」から「外部」へと切り離されていくという状況を見ることができるだろう。ぼくはこの状況にこそ注目する。これこそがゼロ年代以降の作品における、ひとつの同時代性なのではないかと感じているからだ。

そのとき、ヒロインが"特殊な力"を備えているという設定は、単に萌えと密接に関わるオタク系文化の文脈に依存した結果でしかないとぼくは考えている。それゆえにヒロインに"特殊な力"が備わっており、彼女と主人公が出会うことで物語が駆動されていく。それこそが"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"とでもいうべき物語類型である。

では、"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"の別の可能性はあるのだろうか。それはつまり、"特殊な力"が主人公の外部に切り離されているが、その力がヒロインには宿っていないというケースだ。ここで興味深い例をひとつ提示しよう。作品名は『デスノート』だ。

デスノート』はゼロ年代における少年マンガのヒット作のひとつだ。念のために設定を振り返っておこう。この物語では、死神が落とした「デスノート」と呼ばれるノートが鍵を握る。ノートの基本的な機能は、名前を記載した人間を死亡させることができるというものだ。物語は死神リュークが故意に落としたノートを主人公の夜神月が偶然拾うことで幕を開ける。夜神月はノートの力を最大限に活用することで理想的な世界を創り上げようと目論む。一方、物語の途中でノートの所有者が夜神月から別の人物に移れば、今度はその人物を中心に物語は描かれるようになる。『デスノート』のストーリーはまさに、「デスノート」を巡って駆動されていく。

ここまでの内容からは、次のように指摘できるだろう。それは、『デスノート』という作品において"特殊な力"を備えているのは「デスノート」と呼ばれる特殊なノートであり、その力は主人公とは切り離された外部に位置しているということだ。このような意味において、『デスノート』と『涼宮ハルヒ』シリーズ、『狼と香辛料』、『かんなぎ』の間には共通点がある。特殊な力を持っているのが物語のヒロインにせよノートであるにせよ、90年代前半までの少年マンガのように、主人公の身体と"特殊な力"がユニークに結びついていないことは明確である。"特殊な力"はむしろ主人公の外部に位置している。つまり、主人公の身体から離れ、"特殊な力"が独立して成り立っているとでもいえる状況がここにはある。主人公がいなくても"特殊な力"は発揮されるとでもいう状況だ。それは主人公と獣の槍を切り離すことができなかった『うしおととら』とは異なるといえるだろう。具体的に見ていこう。デスノートは所有者の知性や能力とは一切関係なく、人間を殺す機能を持ったノートである。涼宮ハルヒは確かにキョンを含めた周囲の影響も受けつつ世界を改変するが、あくまでその能力を持っているのはキョンではなくハルヒ自身だ。ホロはもともと狼の化身であり、それゆえに彼女には"特殊な力"が宿る。ナギもホロに同じだ。このように、涼宮ハルヒにせよ、ホロにせよ、ナギにせよ、デスノートにせよ、主人公がその"特殊な力"の行使に外的要因として影響を与えることはあっても、その能力自体は主人公とは切り離されてヒロインとノートに備わっているということが理解できるだろう。

このように、いくつかのゼロ年代以降の作品からは、"特殊な力"が主人公と切り離された外部に位置しているという想像力を見ることができる。90年代前半までの少年マンガと比較したときに、それはより明確になる。果たしてこれは、どういう意味があるのだろうか。

ぼくはここに、いまの社会との符合を見ることができるのではないかと考えている。それは、ひと言でいえば多様な価値観/世界観を持ったコミュニティへのコミットメントである。そして"特殊な力"が、ある価値観/世界観へアクセスするためのインターフェイスになっているのではないかと感じている。順を追って説明していこう。

5.異なる価値観へのインターフェイスとしての"特殊な力"

90年代前半までの少年マンガにおいて、そこで描かれるのは単一のコミュニティであり、"特殊な力"はそのなかで発揮されているのが主流だった。例えば『ドラゴンボール』においては主人公はふつうの人間とは異なる"特殊な力"を持っていたが、彼がそれによって迫害されることはなかったし、その力を人目につかないように隠すこともなかった。つまり、この作品ではそういった"特殊な力"がそれほど奇異にうつらない「単一の非日常的な世界観」を持ったコミュニティが描かれていたといえるだろう。

幽遊白書』はどうだろうか。この作品も主人公が"特殊な力"を備えることになる。一方で、"特殊な力"の存在を知らない人物などもおり、世界観は統一されていないようにみえる。しかし、主人公が属するコミュニティにおいてはその限りではない。基本的に、主人公たちの家族やヒロインなど、主人公に親しく関与している人物たちは霊界や魔界が存在しているという事実を認識している。その意味においては、主人公が属するコミュニティは単一の世界観に染まっているといえるだろう。また、この物語では最終的に霊界、魔界の存在が人間界に対して明らかになり、妖怪が人間界でともに暮らす様が描かれている。つまり、当初は主人公の周囲だけに留まっていた単一の世界観が作品世界全体へと拡散していることを見て取ることができる。この点は非常に象徴的だといえるだろう。『うしおととら』についてもほぼ同様のことがいえるだろう。

このように、90年代前半までの少年マンガにおいては、単一の世界観、つまりひとつのコミュニティの中で"特殊な力"を発揮するという物語が描かれていたといえるだろう。自分の生きている日常的な世界と、不思議な力(特殊な力)がまかり通る非日常的な世界がひとつのものとして描かれている。その中で"特殊な力"を駆使してトーナメントを勝ち抜く。「大きな物語」が有効だった時代の少年マンガの主流は、そのようなフォーマットだったのではないだろうか。

一方で、ゼロ年代以降の作品はどうだろうか。具体的に見ていこう。『涼宮ハルヒの憂鬱』において、キョン長門有希古泉一樹朝比奈みくるをつうじて涼宮ハルヒというヒロインに"特殊な力"が備わっているということを知る。そして、神たるハルヒを中心とした非日常的な物語が日常の背後に渦巻いていることを認識するようになる。ここで注目すべきは、彼らが非日常と並行して、それまでどおりの平凡な日常を送っているという点だ。主に長門、古泉、みくるといったキャラクターたちと非日常のコミュニティを構築する一方で、ハルヒや谷口、国木田、キョンの妹といったキャラクターとは日常的なコミュニティを構築する。もちろんそこには、長門、古泉、朝比奈といったSOS団の面々も含まれる。特徴的なのは、非日常のコミュニティにおける価値観は、日常のコミュニティに持ち込まれることがないという点だ。例えば、キョンは谷口らに対してハルヒが変わった女子生徒だという情報は共有しても、彼女が神とまで称されるような"特殊な力"を備えているということまでは知らせない。ハルヒ以外のSOS団のメンバーはハルヒの特殊性を認識していても、それを日常のコミュニティにおいて共有することはないのだ。非日常のコミュニティにおいて共有されている価値観を、日常のコミュニティには持ち込まない。その一方で、2つの異なる価値観を否定せず、ともに並列したものとして扱っている。ここではそのような想像力を見ることができるだろう。

狼と香辛料』についても同様だ。ロレンスはホロとの出会いをつうじて、彼女の故郷探しを手伝うはめになり、その流れで人ならざる者たちの世界の存在を知ることになる。しかし、彼は非日常の世界を知りつつも、そちら側の世界に染まることはない。例えばホロが狼の化身であるという"特殊な力"を利用して金儲けを企むということはない。一方で、非日常的な世界を否定することもない。そういった非日常的な世界があることを受け入れつつ、それと並行して、ホロと出会う前と同じように、貨幣経済の中で商人としての日常的な人生を送る。

かんなぎ』も同じ構造だ。ナギやざんげちゃんといった産土神をめぐる非日常的なコミュニティがある一方で、それとは無縁な高校生活を送るという日常的なコミュニティが存在している。そして、仁やナギ、ざんげちゃんといった登場人物たちは、異なるコミュニティにおける異なる世界観を混同することなく、それぞれを並列に扱う。

デスノート』についても見ておこう。夜神月は死神リュークデスノートの存在をとおして、非日常的な力を手にする。キラと崇められ、自らが理想とする世界、つまり自らの価値観が支配する世界を作るために、新世界の神として振る舞い、繰り返し殺人を重ねていく。さらには自ら率先してキラの捜査に関与することで、キラの敵を排除し、理想の世界の達成に近づこうとする。その一方で、彼は高校生活、大学生活を送り、その極端な正義感から父親と同じように警察庁勤務を志す。さらに物語が進むと、彼はLとしても振る舞うことになる。つまりここでは、キラとしての非日常的な生活と、夜神月としての日常的な生活、加えてLとしての生活がそれぞれ並列して存在している。

このように、ゼロ年代以降の作品からは、日常的なコミュニティと非日常的なコミュニティという複数の価値観を横断しながらも混在させないという登場人物たちの振る舞いを見ることができるだろう。そのとき、主人公はヒロインやノートといった"特殊な力"を持った外部インターフェイスをつうじて、非日常的な価値観へとアクセスする。

ただし、1点だけ注意が必要だ。上記の作品では価値観の異なる複数のコミュニティを横断する振る舞いが共通していると指摘したが、ここで重要なのは複数のコミュニティが物理的に存在していることではない。ポイントは、複数の異なる価値観を横断するというキャラクターの振る舞いにこそある。キョンやロレンス、仁、夜神月といった単一のキャラクターが、ときには矛盾しかねない複数の価値観の違いを受け入れつつ、自分自身の軸をぶれさせずに、横断的に生きていく。キョンは非日常を受け入れつつも、やはり自分は元から日常が好きなのだとハルヒに告げる。ロレンスは人ならぬホロに好意を抱くが、それとは別にして、ホロと出会う前と変わらずに商人としての成功を求める。複数の異なる価値観を受け入れつつ、それを自分自身の持つ価値観とは結びつけない。そのような振る舞いこそが、ゼロ年代以降の作品に特徴的なのだ。

この状況は、主人公の身体性と"特殊な力"が結びついた90年代前半までの少年マンガとは明確に区別することができる。ゼロ年代に至るまで、それがどのように変容したか、ポイントを2つに絞って整理しよう。ひとつは、単一の世界観の中で描かれる物語から、複数の世界観を横断する物語への移行だ。そして、もうひとつは非日常へとアクセスするためのインターフェイスが、主人公自身から主人公の外部へと切り離されている状況だ。

これとよく似た状況を、いまの社会に見つけることができる。ウェブを例にしよう。ぼくたちは現実における人間関係(コミュニティ)とは別に、手軽にウェブでコミュニティを見つけることも、構築することもできてしまう。そのとき、両者の中での価値観が統一されている必要はない。例えば現実的に何らかの政治信条を掲げているわけではない人物が、ウェブのあるコミュニティにおいてはある政治的立場を前面に押し出して振る舞うことも可能である。それが理念として正しいかどうかとは別の観点で、ぼくたちはそういう振る舞いをすることができる。それはウェブの影響というよりは、いまの社会において価値観が多様なものとなったことに起因している。批評家である東浩紀氏の著作から、この状況を引用しよう。

ポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで行きて行く、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、このような切断のかたちを、精神医学の言葉を借りて、「乖離的」と呼びたいと思う。

この状況を『涼宮ハルヒの憂鬱』、『狼と香辛料』、『かんなぎ』、『デスノート』などのゼロ年代の物語に当てはめれば、1人のキャラクター(主人公)が複数の価値観が異なるコミュニティごとにアカウントを使い分けてアクセスをするかのような、乖離的な生が描かれているということができるだろう。そしてそれは、ぼくたちの社会とも無縁ではない。ぼくの考えはこのようなものとなる。

さて、ここまではゼロ年代におけるライトノベル少年マンガを参照しつつ、"特殊な力"とそれによって駆動される物語についての検討を進めてきた。しかし、いずれの作品もジャンル的にはやや偏りのあるものとなってしまっていると感じる。そこで最後に、文芸と呼ばれる領域まで範囲を広げて、同じように検討をしておこう。参照するのは舞城王太郎の小説、『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』(初出『ファウスト』vol.1)だ。

この小説において、福井県西暁に住む主人公・加藤秀昭は頭にドライバーを刺されたことで、東京都調布市の中学生・村木誠の意識に接続される。 村木誠は「世界を救う少年」である。彼は調布市限定ではあるが、空を飛び、人間以上の力を振るうことができる。そして、世界を滅ぼそうとして調布市にやってくる敵と戦うことができる唯一の存在だ。そしてこのとき、村木誠の中には村木と加藤秀昭、両方の意識と記憶が宿ることになる。そのことについて、加藤は次のように述べる。

というなんだか荒唐無稽な村木誠の状況をくだらない、馬鹿馬鹿しいと思いながらも俺は俺自身の記憶として俺のものにする。他人になりすますんじゃなくて、そのままその他人になるということは奇妙ながらも強烈な体験だ。記憶が全く等価な価値と鮮明さで二つ並ぶ。

状況を整理しよう。村木誠は「世界を救う少年」として"特殊な力"を持つ。そのとき"特殊な力"は村木誠に宿っている。言い換えれば、主人公の加藤秀昭の外部に位置している。加藤はドライバーを刺されたことで村木の世界にアクセスし、村木の世界を知る。そこでは、加藤の世界とはまったく異なる荒唐無稽な価値観が支配的である。村木はなぜか「世界を救う少年」であり、彼を倒すために敵は繰り返し調布市を襲う。つまり、村木の"特殊な力"を巡って物語が駆動されている。そんな価値観に、加藤は村木を通じてアクセスする。

さらに、加藤秀昭と村木誠の意識は、同一の村木誠の肉体に収められているが、それぞれが自律した固有の価値観と意識を持つ。例えば、ヒロインの「鞘木あかな」が世界を滅ぼす敵となってしまったとき、村木誠は世界を救うために彼女を殺そうとする。一方、加藤秀昭は世界を捨てて彼女を選ぼうとする。

この状況を村木誠というキャラクターの外観から見ていこう。村木誠というキャラクターは外見上ひとりの人間である。しかし、その内部に、複数の異なる価値観を抱える。村木誠の中からは2人の意識が入れ替わりつつ登場してくる。主人公は加藤秀昭だが、彼は村木誠の肉体に宿るひとつの人格のようなものでしかない。両者の価値観は矛盾する。村木は加藤の価値観が内在していることを意識しながらも、最終的には村木自身の価値観に従って鞘木あかなを殺してしまう。しかし、その後も村木は加藤を、つまり複数の価値観を内在させながら生きていく。

ある世界観に生きるものが、別の世界観を持ったコミュニティの中でも生きることになり、しかしその双方における世界観を影響させることなく、切り離して存在させる。ここからは、『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』にもゼロ年代少年マンガライトノベルに見られた想像力と類似したものを見て取ることができる。

このように見ていくことで、"ある日突然現れた女の子と○○し始める物語"とはより広い意味で検討することができるようになる。その実態は、今日的な社会の在り方のひとつの側面といえるだろう。

*1:念のために補足しておくが、『うしおととら』においては"特殊な力"たる獣の槍は主人公とは切り離されて存在しているが、主人公と不可分であることは確かだといえるだろう。主人公が槍を所持している間、他の誰かがその"特殊な力"を発揮させることはできないからだ