初音ミクは出来ちゃった結婚の夢を見るか?

速水健朗氏の同人誌『Better Living Journal』に収録された『「テクノ歌謡の未来」〜初音ミクが出来ちゃった結婚を宣言する時代〜』を読んで思ったことを書いてみる。なお、以下で用いられるアイドルという単語はすべて女性アイドルを指すものとする。

最初に『テクノ歌謡の未来』についてかいつまんで説明しておこう。速水氏はPerfume初音ミクを比較し、両者の間にはアイドルとしての機能的な差異はほとんど見られないと指摘する(本稿では詳細は割愛する)。こうした動きは過去にも一度あり、それは時期的には2000年頃のことだという。引用しよう。

CGによって実写のような人物の再現を試みた(が大失敗した)劇場版『ファイナルファンタジー』(01年公開)と、デジタル補正技術によって完璧なルックスを伴って登場した浜崎あゆみ(99年にブレイク)、また、それに先だって世に出たCGアイドル伊達杏子(DK-96とDK-97の2Ver)。この三者がほぼ同時多発的に生まれたのが00年前後のこと。

  • 『Better Living Journal』P.19より

当時は技術的な要件や受け手側の意識の問題から、CGとアイドルの間の垣根が揺らぐことはなかったが、現在のPerfume初音ミクを取り巻く状況はその当時の一歩先を行っているのではないかという。そして、アイドルにおける現実と仮想の境界が曖昧になっていくことと並行するように、いまアイドルの「送り手」側の主体もゆらぎ始めている。

現代において境界が不明瞭となったのは、アイドルにおける現実と仮想の境界だけではない。むしろ、もっと重要なのは、送り手側の主体の揺らぎという問題だ。アイマスMADの登場により、アイドルの送り手はプロから素人の手に移りつつある。二次創作の現場ではPerfume初音ミクも、アイドルではなく素材としてしか存在できない。中田ヤスタカPerfumeを素材として扱うように、さらにそれを素材として切り刻んだMAD動画が、ニコニコ動画Youtubeで流通されていく。

  • 『Better Living Journal』P.19より

そのアイドルが生身であろうとCGであろうと、等しく素材として扱われる。現代のテクノ歌謡ブームはこういった境界線の崩壊を背景としているのではないかという論旨の元に、速水氏は以下のように指摘する。

そんな現代において、アイドルが自分の「アイデンティティを示す」ための手段は限られている。アイドルが出来ちゃった結婚を宣言するという昨今の現象は、それが彼女たちに残された(引用者補足:アイデンティティを示すための)最後の手段であることを示している。そうか、テクノ歌謡の未来。それは初音ミクが出来ちゃった結婚を宣言する世界なんだろう。その日がいつかきっとやって来るに違いない。

  • 『Better Living Journal』P.19より

さて、初音ミクが「出来ちゃった結婚」を宣言する世界とは果たしてどのような状況だろうか。以下、検討を進めていこうと思うのだが、このとき「出来ちゃった結婚」という言葉を額面通りに捉えるわけにはいかない。速水氏が指摘する「初音ミクの出来ちゃった結婚」とは、単に初音ミクのイラストを妊婦にして「俺の嫁」と宣言すればいいという話ではないはずだ。文脈から考えれば、この「出来ちゃった結婚」とは、アイドル(初音ミク含む)を「素材に還元できない状態」にすることを意味するのだと、ぼくは考えている。

その根拠として、アイドルが常に不特定多数の性的な想像力にさらされているという点を挙げることができる。性的な想像力の元にアイドルを消費するとき、例えばコラージュのように、ひとびとはアイドルをそれこそ好きにすることができるが、あくまでそれは非公式の設定であり、限定的にしか機能しない。だから、たとえある二次創作作家が「出来ちゃった結婚」を想起させるような初音ミクのイラストを描いたとしても、それは公的には「出来ちゃった結婚」を意味せず、単にその場限りの二次創作として認識されるに留まる。従って速水氏がいうような"アイドルが自分の「アイデンティティを示す」ための手段"になるとは言い難い。

そのような理由から、速水氏が指摘する「アイデンティティを示す」ための「アイドルの出来ちゃった結婚」とは、アイドルや初音ミクを二次創作として「出来ちゃった結婚」させればいいという話ではなく、アイドルが「アイデンティティを示す」ことによって「素材に還元できない状態」になることなのではないかと思う。

いま、二次創作、MAD、あるいはリミックスといった想像力によって、あらゆるものが素材として還元される可能性を持つ。そのような状況において、アイドルが固有のアイデンティティを発露できる領域は限られている。速水氏の論に従えばそれが「出来ちゃった結婚」ということになるのだが、それはアイドルの身体性と結びついたものであるといえる。それに従って、次のように仮定してみたい。アイドルがアイドルという表層を脱ぎ去ったとき、そこに現れる主体の領域は、素材に還元できないものを作り出せるのではないか、と。

アイドルが「出来ちゃった結婚」を宣言するとき、「出来ちゃった結婚」はアイドルというペルソナにではなく、その仮面の下にいる生身の女性の身体性とダイレクトに結びつく。別の言葉で表現すれば、妊娠をするのも結婚をするのも、そのアイドルを演じている女性だということだ。よって、アイドルの「出来ちゃった結婚」宣言を聞いたぼくたちは、そのときアイドルという表層の背後にいる、アイドルを演じている女性の身体性を意識せざるを得ない。

そのように考えると、「出来ちゃった結婚」はアイドルとしての公的な彼女に属するのではなく、彼女の私的な領域に属するものだといえる。しかし、「出来ちゃった結婚」の宣言自体は、アイドルとしての彼女から公的になされる。私的な領域がせり出して来て、公的なものとなる。二次創作的にいえば、誰かが創った個人的な設定が公式の設定のように振る舞う状況とたとえられるだろうか(こうたとえるのもどうかという気はするが)。

公式の設定ではなく、アイドルの私的な領域からせり出した「出来ちゃった結婚」。その「出来ちゃった結婚」は、私的であるがゆえに、アイドルを演じる女性の身体性と密接に関係する。そして、その結びつきを他者が解くことはできない。

ここで二次創作と呼ばれるものについて考えてみよう。二次創作とは、不特定多数のひとびとが、同じ対象に対してさまざまな設定を付け替えながら、いくつもの非公式の物語を紡いでいくものだ。ふつう、そういった設定は付け替え可能/入れ替え可能なものとして存在している。例えば、初音ミクを「出来ちゃった結婚」させる二次創作があったとしても、その設定は、異なる作者の異なる二次創作には何ら影響しない。言い換えれば、誰かが作り出した私的な設定は、他の誰かが二次創作をする際にキャンセルされる。その設定が初音ミクと強固に結びついているわけではないからだ。しかし、アイドルが私的に「出来ちゃった結婚」をすると、それがアイドルの身体性と結びついているがゆえに、他者にはキャンセルのしようがない。こういった事情によって、「出来ちゃった結婚」は入れ替え可能な素材として還元されることなく、アイドルが「アイデンティティを示す」ための手段として機能し得るのではないか。

という一連の流れが、ぼくの仮説だ*1。そして、初音ミクが上記のような素材に還元されないものを作り出せるかというと、それは難しいのではないかと思っている。というのも、初音ミクには生身のアイドルが持つような身体性がないからだ。

初音ミクのアイドルとしての表層、つまり二次元美少女のキャラクターを剥ぎ取ったとき、そこに残るのはソフトウェア音源としての初音ミクの合成音声である。そして、初音ミクの合成音声はもはや藤田咲とも切り離されている。初音ミクの歌声ライブラリには確かに藤田咲の声が格納されているが、あくまでそれは音声素片でしかない。Vocaloid2 Editorで入力されたデータに従って、歌声ライブラリから音声素片は抽出される。それらをVocaloid2の合成エンジンが組み合わせて初音ミクの歌声として生成し、出力する。当然、藤田咲が主体的に音声を発しているわけではない。そのため、例えば初音ミクが政治的/思想的/宗教的に何らかの意味を持つ楽曲を歌ったとしても、そのメッセージ性が藤田咲へと還元され、結び付けられることはない。

また、通常のアニメのキャラクターは声優の身体性とは無縁ではいられない。声優の病気や老い、死といったものがキャラクターを演じる声優のキャスティングに影響を及ぼすことからも、それは明らかだろう。しかし初音ミクにおいては藤田咲の声がすでに歌声ライブラリに格納されているため、藤田咲の身体性は初音ミクに何ら影響しない。

初音ミクには身体性がない。キャラクターとしての初音ミクは虚像でしかない。その虚像、つまりアイドルとしての表層を剥ぎ取って残る音声も、藤田咲の身体性とは結びつかない。ゆえに、初音ミクに関するあらゆるネタは身体性と結び付けられる契機を持たない。

つまり初音ミクにおいては、キャラクターの領域も、それを剥ぎ取って残る音声の領域も、すべてが複数化され得る。素材としての初音ミクは何度でも「出来ちゃった結婚」をすることができるがしかし、このエントリで追ってきた意味での「出来ちゃった結婚」をすることはできない。例えばネギは初音ミクとかなり親密な関係にある設定だといえるが、けっして公式の設定として振る舞っているわけではない。そしてネギは初音ミクの身体性に結びついているわけではないため、誰もがその設定をキャンセルすることができる。

初音ミクの特徴は、身体性を持たないがゆえに、さまざまな非公式の設定をアクセサリーのように付け替えることができるという点にあるといえる。アイドルを演じる女性が「出来ちゃった結婚」することで他者が介入できなくなるような状況は、初音ミクにおいては生じ得ない。

さて、ここまでは初音ミクからキャラクターという表層を剥ぎ取って、その身体性を検討した。ここからは、初音ミクを覆うヴェールをもうひとつめくってみようと思う。合成音声の背後に存在するものはなにか。それは初音ミクを操る、楽曲の制作者たちである。

このエントリのはじめのほうでも引用したが、『テクノ歌謡の未来』において、速水氏は次のように指摘していた。すなわち、アイドルの送り手側の主体がゆらぎ始め、アイドルの送り手がプロから素人の手へ移りつつある、という点だ。

現代において境界が不明瞭となったのは、アイドルにおける現実と仮想の境界だけではない。むしろ、もっと重要なのは、送り手側の主体の揺らぎという問題だ。アイマスMADの登場により、アイドルの送り手はプロから素人の手に移りつつある。二次創作の現場ではPerfume初音ミクも、アイドルではなく素材としてしか存在できない。中田ヤスタカPerfumeを素材として扱うように、さらにそれを素材として切り刻んだMAD動画が、ニコニコ動画Youtubeで流通されていく。

  • 『Better Living Journal』P.19より

送り手側の主体の揺らぎ。初音ミクについてもこれと同じことがいえる。既に見てきたように、アイドルとしての初音ミクには身体性が存在しない。しかし、そのシルエットの向こうには身体性を持った楽曲の制作者たちが透けて見える。それこそが初音ミクの主体だ。彼女/彼らが主体的にVocaloid2 Editorを操作した結果が、初音ミクの合成音声へと反映される。つまり、初音ミクアイデンティティの領域は初音ミクの背後にいる者たちが担う。しかし、アイドルとして振る舞うのは表層にいるキャラクターと合成音声である。それが初音ミクにおける送り手側の主体の揺らぎに他ならない。

そして、初音ミクの身体性の領域を担う制作者たちが「アイデンティティを示す」行為をおこなったとしても、それは初音ミクに結び付けられることはない。例えば、ある制作者が初音ミクを使用して自分の好きなシカゴハウスの影響色濃い作品を公開したとしよう。そのとき、制作者は多くのひとびとから「シカゴハウスが好きなのだろう」と思われるはずだが、それが初音ミクに還元されることはない。つまり、「初音ミクはシカゴハウスが好き」ということにはならない。なぜなら、「シカゴハウスが好き」という文脈は制作者の身体性に結びついており、そのために、送り手の「アイデンティティを示す」ことにつながるからだ。けっして初音ミクが「アイデンティティを示す」ための手段にはならない。

初音ミクは身体性を持たないがゆえに、素材に還元されない領域もまた持たない。いずれにせよ、ぼくの考えはそのようにまとめることができるだろう。以上、「アイドルの送り手側の主体の揺らぎ」と「出来ちゃった結婚によってなされるアイドルのアイデンティティの表示」の関係を、初音ミクに焦点を当ててざっと追ってみた。

以下、若干の補遺。

この状況は別にアイドルや二次創作だけに限定される話ではないだろう。例えば、ウェブやそれに付随するツールによって一般のひとびとは情報を発信しやすくなった。ある出来事が起きたとき、リアルタイムにその場に居合わせたひとたちによって、Ustreamによる中継やtwitterによる実況、あるいは携帯電話による撮影がおこなわれることは、もはやそれほど珍しくもない。ニコニコ動画において、送り手の想像力を受けたひとびとが次の送り手となるという状況もここに並べてもいいだろう。そう考えると、「送り手側の主体の揺らぎ」とは、技術や環境の影響を受けながら、その範囲を変えていくものなのだろうと思う。アイドルにおける「送り手側の主体の揺らぎ」は、その流れのなかのひとつとして位置付けられるのではないか。

以下、ヴァルター・ベンヤミンが1936年に発表した文章を引用し、終わりとしよう。

幾世紀ものあいだ文学の世界では、少数の執筆者が何千倍もの数の読者を相手にする状態がつづいていた。しかし前世紀のおわりごろ、ひとつの変化が生じた。それは、新聞の急速な普及である。そして新聞がたえず新しい政治的・宗教的・学術的・職業的・地域的読者組織を掌握するにつれて、ますます多くの読者が----はじめはごく散発的であったが----執筆者のがわへ移っていった。同時に日刊新聞も<読者欄>を一般に開放しはじめ、こんにちでは、働いているひとびとで原則としてどこかでその労働経験、苦情、ルポルタージュ等を発表するチャンスを見いだしえないようなひとは、ヨーロッパにはほとんどいないという状況である。同時に、作家と大衆のあいだの区別も、その根本的な性格を喪失しつつある。それは、もはや機能上の相違にすぎず、ケース・バイ・ケースで異なった方向をとっているにすぎない。読者は、つねに執筆者になりうるのである。

  • 『複製技術時代の芸術』P.32より

*1:というのは変な方向に考え過ぎで、実際のところは「アイドルの出来ちゃった結婚」という素材は二次創作をする者にとってあまり嬉しいものではないから忌避されているというだけかもしれない