はっとりみつる / さんかれあ (2)
つづき。
ラブコメというジャンルでは、紆余曲折の果てに主人公とヒロインが結ばれることで物語がゴールを迎えるという展開がオーソドックスな形式だといえるかもしれない。その場合、「恋愛の進展を阻む障害」を物語のところどころに設置していくことで、ゴールに到達するまでの物語のテンション(緊張感)を維持しつつ、連載モノとしての寿命を引き延ばしていく。そのように考えると、ラブコメでは、「恋愛の進展を阻む障害」を、作家がどのように設定するのかという部分が物語の特色になってくるのではないかと思う。「恋愛の進展を阻む障害」は、例えば恋敵というかたちを取ることもあるだろうし、あるいは主人公の自意識みたいなものが邪魔をするというケースもあるだろう。
そして『さんかれあ』。主人公とヒロインの間に設定された「恋愛の進展を阻む障害」は「少年マンガ的な敵キャラ」として現れるようだ。2人の最初のハードルはヒロイン・散華礼弥(さんかれあ)の父親。2人は協力してこの障害を退ける。その描写はラブコメでありながら、少年マンガ的なバトルものを思わせるものだった。そして、どうやら3巻以降でも引き続きハードルが「少年マンガ的な敵キャラ」のような形式で登場するようなので、この構図が『さんかれあ』という物語の基本的な枠組みになって、2人の恋愛を阻みつつ、物語が引き延ばされていくのかもしれない。
よって2巻では、1巻で示された「ヒロインがゾンビであるがゆえに、主人公が"彼女の腐敗する肉体"というタイムリミットと否応なく向き合わざるを得ないラブコメ」という大枠は少し後退しているように感じた。個人的にはこの設定がもたらす焦燥感と緊張感が『さんかれあ』の大きな特徴だと思っているので、「恋愛の進展を阻む障害」を繰り返してヒロインのタイムリミットを無限に後退させてしまうと、『さんかれあ』特有の焦燥感や緊張感を薄れさせることにもつながるだろう。今後は、作者がどのようにして物語(ヒロイン)を延命させつつ緊張感を維持していくのか、注目してみたい。
初音ミクとついったん、「生みだす力」を持つキャラクター
1.はじめに
以下は、夏コミに続いて12/5の文学フリマで頒布される『アイドル領域vol.2』に掲載されているぼくの初音ミク論『複製技術時代のアイドル消費』とも関連する考察だ。来春、『アイドル領域vol.3』に寄稿する予定の「初音ミクの自己言及性」に関する考察との間を埋めるものと位置付けている。言葉を変えれば、ぼくの個人的な『アイドル領域vol.2.5』みたいな感じだといえるかもしれない。もちろん、単独でも読むことができる。ここでは初音ミクと「ついったん」という2つのキャラクターについて、ジョナサン・ジットレインを引用しつつ考察を進めている。それでは本題に移ろう。
2.「ついったん」について
以前から「ついったん」を見ていて、彼女からは初音ミクのような「自己言及性」と「生みだす力」を感じていたので、まずはそれについて検討してみたい。その前に「ついったん」についての説明が必要と思われるので、まずはそこから始めよう。
ついったんとは、Twitterのアカウントのひとつだ。その成り立ちは、旧来のTwitterのメンテナンス画面やエラー画面で表示された猫にある。詳細は以下のURLを参照して欲しい。
一部のユーザの手によってこの猫が萌え擬人化され、ついったんは誕生した。Twitter上のついったんアカウントはbotとは異なり、Twitterユーザが自らの手で発言させる仕組みとなっている(ついったん自身は勝手に発言しない)。ついったんに発言させる方法は二種類あり、ついったん宛てにダイレクトメッセージを送信するか、IRCチャンネル #twittan で「@twittan [メッセージ]」と発言することによって、その内容がついったんの発言としてTwitter上に反映される。メッセージを送るためには、Twitterの仕様上、ついったんと相互フォロー状態になっている必要がある。
以上がついったんの概要だが、ついったんのキャラクターとしての興味深い特性は、この「ついったん自身が発言するためには、他者のメッセージを受け付ける必要がある」という仕様の部分にある。具体例を見てみよう。
上記のツイートは、Twitterアカウントとしてのついったんがユーザから下品なメッセージを受け付けるケースがあり、しかし仕様上はそれを拒むことができないというついったんの特徴を、ついったんというキャラクター自身が自覚している(ように他のユーザが発言させている)ものだ。
このツイートも同種だ。Twitterアカウントとしてのついったんは自分自身ではしゃべることができない。しゃべるためには誰かにメッセージを送信してもらう必要がある。ここでは、ついったん宛てのメッセージの送信がしばらくの間なかったこと、つまり、しばらくの間ついったんが発言できなかったことを受けて、「私の存在忘れるなんてひどい!」とついったん自身が自分のフォロワーに向かって発言をうながしている(ように他のユーザが発言させている)ことがわかる。
もちろん、ついったんの発言はこのタイプのものに限られるわけではない。むしろ他愛のない発言のほうが多く見られる。それでも、この特徴は興味深い。ここでのついったんは、自分自身が他者のメッセージを受け付けるだけのTwitterアカウントであることを自覚した上で、それでもひとりの女の子のキャラクターとして発言している(ように他のユーザが発言させている)。ついったんのこのキャラクター性は、ぼくに初音ミクを思い起こさせる。詳細はぼくが以前書いた以下のエントリを参照していただくのがいいと思うので、ここでは割愛する。
一方で、ついったんのこの特徴--「ついったん自身が発言するためには他者のメッセージを受け付ける必要がある」--は、問題を孕むこともある。一部のユーザが行き過ぎたメッセージ送信をし続けた結果、ついったんからフォローを解除されたこともある(相互フォローが解除されるので、このユーザはついったんに発言させることができなくなる)。あるいは、ついったんの発言に2chのコピペネタが含まれ、それに反対するユーザが発言をするといったケースも見られる。具体的には以下のようなものだ。
コピペの一例としては上記のようなものが挙げられる。一方で、コピペに対する反論としては以下のようなものが見受けられる(必ずしも上記に対応するわけではない)。
ついったんの発言がコピペで埋まるような状態をあまり好んでいないひともいれば、別に気にならないというひとも少なくないだろう。好ましく思わない理由としては、コピペがスパムのように見えるからでもあるだろうし、ついったんが持つキャラクター性を損なうものだからというものもあるだろう。だいたい、ついったんをフォローしているのは現時点で8,500アカウントくらいだし、その観測範囲での出来事を問題と呼ぶほどでもないと思うひともいるだろうし、そんなに嫌ならついったんのフォローを解除して自分のタイムラインを整理すればいいと考えるひともいるだろう。ぼく自身もついったんと相互フォロー状態になっており、ついったんの発言を楽しむユーザのひとりだ。ぼく個人の感覚でいえば、コピペ「だけ」で埋まるのはあまり好ましく思っていないが、現状ではそれほど気にならないツイートの量だし、だから今後もついったんをフォローし続けるだろう。そんなこんなを踏まえた上で、ついったんのコピペ発言について少し考えてみると、思うにこれは、ついったんが「生みだす力」を持つがゆえに起こる状況なのだろうと感じている。
3.「生みだす力」を持ったキャラクター
ハーバード・ロースクール教授ジョナサン・ジットレインは、その著書『インターネットが死ぬ日 そして、それを避けるには*1』において、マルウェアに関して以下のように指摘している。
技術がわかる人の中には、悪性コードというのはMicrosoft Windowsの問題だと考える人が多い。WindowsとIEの設計が甘いことが元凶であり、設計が「優れた」LinuxやMacといったOS、あるいはFirefoxやOperaなどのブラウザを使えばユーザは保護されるというのだ。そんなことをしても安全性はほとんど改善されない。どのOS、どのブラウザにも脆弱性が存在するし、そもそも根本的な問題は、パソコンというものが(どのようなOSを使うにせよ)その構成をユーザが自由に変更可能でどこから手に入れたソフトウェアでも走らせられるという点にあるからだ。
ユーザがおかしなソフトウェアを実行してしまえばマシンがめちゃくちゃになるおそれがあるし、そのマシンがインターネットとつながっていれば他人のマシンも巻きこむおそれがある。たしかにマルウェアはWindowsを標的にすることが多いが、それは基本的にMicrosoftの市場シェアが圧倒的だからだ。(中略)
パソコンは設計意図どおりの動作をするもので、弱点になるのはユーザというわけだ。
- 『インターネットが死ぬ日』P.102より
WindowsやLinux、MacといったOSを搭載したコンピュータの特徴は、誰でも自由にコードを書いて、どこから手に入れたソフトウェアでも走らせることができる点にある。だからこそコンピュータは「生みだす力」を持っており、創造的に利用されてイノベーションを生む可能性がある。そして同時に、マルウェアのような問題を孕むことにもなる。ここでのジットレインの指摘はそのようにまとめることができる。
ついったんもこれと同じことがいえるのではないだろうか。ついったんは相互フォロー状態になっているユーザが自由に発言させることができる。だからこそ、先述したようなキャラクター性--自分自身が他者のメッセージを受け付けるだけのTwitterアカウントであることを自覚した上で、それでもひとりの女の子のキャラクターとして発言する--が、ユーザの自発的なついったん利用の中から自然に発生した。そして同時に、コピペ発言という問題を孕む。
さて、ジットレインによると、「あるもの」に「生みだす力」を与える要因は基本的に以下の五つが考えられるという。
- テコの作用により、どこまで作業を簡単にしてくれるか(テコの作用)。
- 幅広い作業にどこまで対応できるか(順応性)。
- どのくらい簡単に使い方を学べるか(習熟性)。
- 新しい活用方法を作り出す意欲と能力を持つ人がどのくらい簡単にアクセスできるか(アクセシビリティ)。
- 専門家以外の人にも(おそらく、特に専門家以外の人へ)どのくらい簡単に改変を伝承できるか(伝承性)。
- 『インターネットが死ぬ日』P.128
これをコンピュータで見てみると、次のようにいえる。「テコの作用」については、OSやミドルウェアや各種のアプリケーションはさまざまな処理を肩代わりしてくれるといえる。「順応性」については、ブラウジングをしたり、音楽を聴いたり、映像や画像を見たりできるだけではなく、プログラミングもできるし、ドキュメントの作成、音楽制作、映像編集など幅広い用途がある。また「順応性」では、それが作られた時点では想定されていなかった用途にも使えるということも重要になってくる。あとから生まれてくる利用方法に対して開かれているかどうか。この点、コンピュータは「順応性」が非常に高いといえるだろう。「習熟性」については、完全な習熟は難しいだろうけれど、自発的な学習である程度のことはできるようになる。「アクセシビリティ」については、コンピュータはひろく家庭や学校に行き渡っている状況であることから、高いといえる。「伝承性」はインターネットとの組み合わせによって非常に高いといえるだろう。
なお、「生みだす力」を持ったものであっても、これらすべての項目を必ずしも満たすわけではない。たとえば航空機は物体を長距離移動させるという点では「テコの作用」が高いが、幅広い用途があるかというと必ずしもそういうわけではないし、「アクセシビリティ」だってかなり低い。ジットレインによれば、「テコの作用」、「順応性」、「習熟性」、「アクセシビリティ」、「伝承性」は相互に補完しあう関係にあることが多いという。また、「生みだす力」を持ったものが「生みだす力」を持たないものより必ずしも優れているというわけではない。設計段階で用途を限定することで、より使いやすくなるケースもあるからだ。それに、「生みだす力」を持ったコンピュータが、同時にマルウェアの問題を孕むことは既に見たとおりだ。
これをついったんに当てはめると、次のようにいえるだろう。
「テコの作用」について。ついったんは基本的に何かの作業を簡単にするものではないので、その意味では効果はないといえる。一応、ついったんは現時点で約8,500アカウントからフォローされているため、ネタをウェブ上に広げることを簡単にしている、ということはできるかもしれない。しかし、ついったん以上のフォロワーがいるアカウントも珍しくはないので、やはりこの点はそれほど効果がないといえるだろう。
「順応性」について。基本的にはTwitterで出来ることがついったんでもできる。従ってTwitterというサービスの中では充分な「順応性」があるといえるかもしれないが、それ以外の部分ではあまり期待できない。別のサービス、たとえばPixivなどをのぞいてみると、ついったんタグの付いたイラストも描かれているのを見つけられる。さらに、ユーザの自発的な利用の中から、ついったんが「他者のメッセージを受け付けるだけのTwitterアカウントであることを自覚した上で、それでもひとりの女の子のキャラクターとして発言する」というキャラクター性を獲得したことは、ついったんが誕生した当初から想定されていたことではないだろう。つまり、ついったんはキャラクターとして消費されることには「順応性」が高いといえる。しかし、それ以上についったんがひろく一般に活用されているなどというケースはあまりないといっていいだろう。言い換えれば、ついったんはそのコミュニティの中でだけ「順応性」が高い。ぼくはこの点が重要だと感じている。ついったんのキャラクターとしての「順応性」の高さは、初音ミクと共通する。詳細は後述しよう。
「習熟性」は高いといえるだろう。Twitterが使えるなら誰でもついったんを利用できるレベルである。「アクセシビリティ」も同じ理由から高いといえる。Twitterのアカウントを作成するのにそれほどの困難はないし、ついったんをフォローするのも難しいことではない。
「伝承性」について。「伝承性」では「専門家」から他のひとへどのくらい簡単に改変を伝えられるかが重要になってくる。ここでいう「専門家」とは、Twitterユーザの中でもさらについったんに深く関与しているひとたち、少なくともついったんをフォローしているか、ついったんのイラストを描いているひとたちだといっていいだろう。その範囲内では、「伝承性」が高いと考えられる。ぼくはついったんをフォローしているだけで彼女に発言をさせたことはないが、それだけでついったんがどういうキャラクター性を持っているのか知ることができている。しかし、これは「専門家」以外には伝わりにくいし、場合によってはどうでもいいことのはずだ。ついったんの発言はついったんをフォローしている範囲以上には広がりにくい。もちろんFavやリツイートによって拡散させることもできるが、それはついったんの仕様の範囲を超えた外部環境に大きく依存する。基本的についったんを気にするのはTwitterユーザの中のさらについったんをフォローしているひとであり、その点では「伝承性」があまり高くない。逆にいえば、ついったんはそのコミュニティの中でだけ「伝承性」が高いといえる。
ついったんは「習熟性」と「アクセシビリティ」が高い。そして「順応性」と「伝承性」はついったんコミュニティの中で高く、「テコの作用」に至ってはほとんどない。言い方を変えれば、「順応性」と「伝承性」は主についったんコミュニティの中で醸成されるため外部には広がりにくく、そして「習熟性」と「アクセシビリティ」が高いがゆえに、比較的容易に新たなユーザがついったんに流入しやすい。さらに、ついったんに発言をさせるには、いままでの経緯やついったんのキャラクター性を知っている必要はなく、行き過ぎていないかぎり自由な発言をさせることができる。こういった事情から、ついったんにコピペをしゃべらせる新規ユーザが流れ込みやすく、それに反対する従来からのユーザが対立するという構図が生まれ得るのではないだろうか。
一方で初音ミクについてだけれど、彼女はついったんよりも「生みだす力」が強いとぼくは考えている。それによって初音ミクに関するコンテンツが数多く生み出され、共有され、改変され、消費されていく。『アイドル領域vol.2』において、ぼくはローレンス・レッシグが指摘した「コモンズ(共有地)」とイノベーションの関係を援用し、初音ミク文化のひろがりを論じた。来春発行予定の『アイドル領域vol.3』ではこれを受けて、さらなる初音ミク論を展開するつもりだ。そこでは序章的な位置付けでジットレインの「生みだす力」を引用しようと考えている。以下の文章は、そのプロトタイプとなるだろう。
4.初音ミクの持つ「生みだす力」
ここからは、ジットレインによる「生みだす力」の要因を、初音ミクに適用して検討を進めたい。
まず「テコの作用」だが、これは充分に備わっているといえるだろう。確かに、VOC@LOIDを習熟するよりも自分で歌ったほうが手っ取り早いとはいえるかもしれない。しかし、ソフトウェアによって女声を手軽に利用できるということは女性ヴォーカリストをいちから探すよりは手軽だろう。加えて、なによりも重要なのは、『アイドル領域vol.2』で詳しく論じたように、初音ミクに主体的な意思がないことによって得られるメリットだろう。初音ミクは合成音声を発するだけで、そこに人格があるわけではない。だから彼女は「あなたの曲、なんだか素人っぽいわね」とか「このメロティじゃあ、わたし息継ぎができないです...」とか「もうっ!こんな恥ずかしい歌詞、わたしが歌えるわけないじゃないっ///」、あるいは「明日から本気出す」、「風邪ひいちゃったから歌えないの」などといった言葉を自分からはいわない(いって欲しいひともいるかもしれないが)。たとえ楽曲を作ることに慣れていない制作者の楽曲でも、息継ぎする余裕のない楽曲でも、歌うのがすこし躊躇われるような歌詞でも、それをどんな時間に、休みなく歌わされても、初音ミクは文句を言わない。この結果、たとえDTMの初心者であっても初音ミクを自由に使って習熟できるし、どんなタイプの楽曲でも制作して初音ミクに歌わせることができるといえる。初音ミクをプロデュースするという行為は、この点においてぼくたちにとってオープンでフリー(自由)だ。これは「テコの作用」における手軽さの恩恵だろう。
次に「順応性」について見ていこう。初音ミクが適用される領域は幅広い。これは初音ミクの「順応性」の高さをあらわしている。具体的には次のとおりだ。
音楽に関しては、「テコの作用」の項で述べたとおり、さまざまなジャンルに自由に適用することが可能となっている。さらに、初音ミクを非商用利用する場合、ライセンスによって禁止されている使用方法は「公序良俗に反する歌詞を含む合成音声を公開・配布すること」、「第三者の人格権を侵害する合成音声を公開・配布すること」の二点であることも、初音ミクの利用をオープンにしている。もちろん、商用利用に関しても、利用が制限されているわけではなく、別のライセンスのもとでの利用が許可されている。
加えて、初音ミクはイラストも多く描かれている。それはピアプロ・キャラクター・ライセンスによって、二次創作に関する一定の自由がぼくたちに与えられていることも影響している。
上記のライセンスからも明らかなとおり、初音ミクは自由に使われることが想定されおり、用途は制限されていなかった。だからこそ当初は想定されていなかっただろう使われ方--MikuMikuDanceやリズムゲームへの展開や自己言及的なキャラクター性の獲得、ネギなどの設定の付与--が生まれる余地があった。この当初想定されていない使われ方を獲得するという点が、初音ミクの「生みだす力」の特に重要な部分ではないかと思う。
「習熟性」についても、音を出すだけなら初音ミクはごくシンプルだ。初音ミクをはじめとしたVOC@LOIDはインターフェイスがピアノロール方式になっているため、はじめて使うひとでもだいたいの操作は直感的に理解できる。一方、それ以上の習熟にはそれなりに学習が必要になるといえる。同様に、初音ミクのイラストを描くことも、MikuMikudanceで彼女を踊らせることも、ひろく開かれてはいるものの、習熟にはそれなりに学習が必要だといえるはずだ。つまり誰でも簡単に、とはいかないかもしれないが、決して一部のひとのための秘儀というわけではない。
「アクセシビリティ」だが、初音ミクはソフトウェアとして提供されており、コストを支払えば必ず手に入れることができる。もちろん動作させるためにはコンピュータが必須だけれど、コンピュータ自体も既にひろく行き渡っている以上、「アクセシビリティ」には大きく影響を与えないだろう。さらに、楽曲は制作できなかったとしてもMikuMikuDanceによって彼女を踊らせたいと考えるひとにとっても、MikuMikuDanceは無償で利用が可能であるため、「アクセシビリティ」が高いといえるだろう。
「伝承性」は、ネギを思い浮かべればいいかもしれない。初音ミクに付随するこういった「設定」はユーザの手で自然的に発生し、伝承されていく。また、『恋スルVOC@LOID』の歌詞に見られた初音ミクの自己言及的なキャラクター性が他の楽曲に伝承されていったことも「伝承性」の事例として挙げられる。そしてこれは、初音ミクの「専門家」、つまり、初音ミクを利用して楽曲を制作するひとやイラストを描いているひとやMikuMikuDanceを利用して初音ミクを踊らせているひとにしか理解できない話ではない。単に楽曲を聴いたり、イラストやダンスを眺めているだけのユーザでも理解できるものだからこそ、彼らにも伝承されていく。また、制作者たちは伝承された要素を必ずしも受け継ぐ必要はない。ときに受け継いで、ときに受け継がないという選択肢を採用できる。これはソフトウェア開発における「フォーク」をより柔軟にしたようなものだといえるかもしれない。
このように見ていくと、初音ミクは「テコの作用」、「順応性」、「アクセシビリティ」、「伝承性」が高いということができる。「順応性」が高いがゆえに初音ミクはさまざまな用途に後天的に利用されはじめ、その適用範囲は、楽曲制作だけでなくゲームや動画などにまでひろがっていく。そして「伝承性」が高いがゆえに、専門家以外であっても初音ミクのキャラクター性や設定を理解できる。そこで影響を受けたユーザが「自分も初音ミクを利用したい」と思ったとき、「アクセシビリティ」が高いために初音ミクの利用を阻害する要因はほとんどない。そして初音ミクを手に入れれば、「テコの作用」が高いために自由に楽曲制作することができる。初音ミクの「生みだす力」はこのように捉えることができるだろう。
ぼくが考えるところ、特に重要な点は彼女の「順応性」だ。当初想定されていなかっただろう使われ方--MikuMikuDanceやリズムゲームへの展開や自己言及的なキャラクター性の獲得、ネギなどの設定の付与--を可能としたのは、紛れもなく初音ミクの「生みだす力」が関係している。『アイドル領域vol.3』では、この中から「自己言及的なキャラクター性の獲得」に焦点を絞って、考察を展開するつもりだ。
そのまえに、12/5は『アイドル領域vol.2』をどうぞよろしくお願いします。
*1:原題は『The Future Of The Internet: And How To Stop It』。原著はクリエイティブ・コモンズでライセンスされ、配布されている。詳しくはhttp://futureoftheinternet.org/を参照のこと
『最前線』プレオープン前夜祭
本日開催された星海社の『最前線』プレオープンのイベントに参加してきた。理由は『最前線』における作品の無償公開、DRMフリーといった試みに興味を持ったから。前半は太田克史編集長によるウェブサイト『最前線』のプレゼンテーション、後半は『最前線』の制作に携わった関係者による座談会という構成だった。サイトのオープンは9/15の正午らしいけれど、先行して見ることができた。なかなかおもしろそうだと同時に、気になる部分もいくつかあった。前夜祭の中で印象的だったところをメモ書きしてきたので、以下公開。
- 『最前線』のサイトはHTML5でコーディングされているが、現時点ではHTML5を使わなければできないことをやっているわけではない。
- 小説、マンガのビューアを用意しており、プラグイン無し、ブラウザのみで動作する。
- サイトには『最前線』のハッシュタグ(#sai_zen_sen)や、個別のコンテンツのハッシュタグ付きツイートを表示する領域がある。
- また特定のページには「ツイートする」ボタンや「はてなブックマークする」ボタンが備わっている。
- コンテンツは「フィクションズ(小説)」、「コミックス(マンガ)」、「最前線スペシャル」の3つ。
- 「フィクションズ」は2本公開。
- 小説は、ウェブサイトに画像を埋め込む形式ではなく、テキスト。従ってコピーアンドペーストが可能。また、ビューアの機能を利用して、気に入った部分を引用しながらのツイートも可能。
- ルビや三点リーダ、ダッシュなどが綺麗に表示されるように工夫した。
- 小説中でルビのある箇所を引用してツイートすると、ルビをカッコに入れた形式に自動で変換する仕組みがある。
- なお、小説は縦書きではなく横書き。
- 「コミックス」は3本公開。
- 「コミックス」も「フィクションズ」と同様のビューアで閲覧できる。ページ送りは横ではなく縦方向。
- また、気に入ったページを引用してのツイートも可能。将来的にはコマ単位のツイートもできるようにしたい。
- 「最前線スペシャル」のコンテンツは2つ。
- 『竹画廊』はイラストレーターの竹がイラストをアップしていくコンテンツ。
- 「最前線スペシャル」のもうひとつのコンテンツは「坂本真綾の満月朗読館」。
- 今後の展開は以下のとおり。
- 「FICTIONS新人賞」の立ち上げを実施。
- 星海社FICTIONSの売上の1%が新人賞の賞金となる。
- DRMフリーについて。
- 作家も自分の作品が人の目にふれて欲しいと思っている。フリーで公開すれば、国内だけではなく、英語や中国語にも翻訳されてウェブ上にばらまかれるだろうことを想定している。紙ではリーチしきれないところへアプローチすることができる。*2
ちなみに星海社の立ち上げについて、編集長が「講談社ではなく星海社を立ち上げて『最前線』を始めたのは、"ゼロだから"。講談社で始めれば、講談社という名前がついて回ることになる。」、「大企業の一部署の場合、収益は企業のものだが、星海社でやったことは星海社の収益として次のアクションに再投資できる」、「金を儲けるだけなら奈須きのこに新作を書いてもらって同人誌を売るという手段もあるが、それでは未来は何も変わらない」という主旨の発言をされていたのが印象的だった。
個人的には、DRMフリーでどう収益を上げていくのかが気になっていたのだけれど、星海社FICTIONS、星海社文庫といったキーワードがあったので、おそらくフリーミアム的なビジネスモデルなのではないかと思う。なお、出版物は、発行は星海社、販売は講談社になる模様。あるいは、出版だけではなくイベント事業もやるようなので、そちらでも採算を合わせていくのかもしれない。
先に「フリーミアム」と書いたけれど、個人的にはもっとおもしろいビジネルモデルだとカッコいいなと思っている。ここから何が始まっていくのか、引き続きフォローしていこう。
はっとりみつる / さんかれあ (1)
大雑把なあらすじはこうだ。
ゾンビ大好きな高校生・降谷千紘は、名門女子校に通う良家の子女・散華礼弥(さんか・れあ)と偶然出会い、彼女とともに死んだ生物を蘇らせる「秘薬」を生成する。しかし、父親の異常な束縛と偏愛に絶望した礼弥は、いまの生活から逃れるためにその「秘薬」を飲んでしまう。ゾンビとして生まれ変わった礼弥は人生で初めて手に入れた自由を喜び、ゾンビマニアの千紘もまた美少女ゾンビとの生活を楽しむ。しかし、礼弥の身体は死後硬直を開始し、腐敗へと少しずつ向かっていく----。
設定がひじょうにぼく好みだったので読んでみたのだけれど、実際におもしろかった。
あらすじに書いたとおり、ヒロインは一度死ぬ。つまりこれは、キャラクターとしてのヒロインが「傷つき、死ぬ身体」を持っていたということを意味する。そこからゾンビとして蘇らせることによって、こんどは「腐敗する身体」を与える。「傷つき、死ぬ身体」と「腐敗する身体」は、機能的にはどちらも同じ意味だといえるだろう。しかし、物語としては、ヒロインがゾンビになることで彼女の抱える「キャラクターとしての身体と生命」が有限なものであるということを、むしろ強調する。ヒロインがゾンビになるまで、彼女の身体性について主人公がまったく意識しなかったように、ぼくたちもまた、ヒロインがゾンビになることで、それを改めて認識する。言い換えれば、虚構(マンガ)の中でさらに虚構的な出来事(ゾンビ化)を経由しつつも、ヒロインの身体からは自然主義的なリアリズムが失われず、かえって浮き彫りになる。それはマンガという表現の持つ強度に由来するものなのかもしれない。
このように、『さんかれあ』は「腐敗する身体」というタイムリミットを与えられたヒロインと主人公が織りなすラブコメなのだけれど、こういった描写に対する倫理的な言及も作中に見られる*1。だから作者は無自覚にヒロインをゾンビ化させたわけではないと感じさせるし、その点も、この作品の今後を期待させるものだといえるだろう。
このマンガのこれからの展開が楽しみだ。
ちなみに、第1話はこちらのサイトで公式にフリーで公開されているので、興味を持たれた方はぜひ。
木崎伸也 / 世界は日本サッカーをどう報じたか
footballistaのライターとしてもお馴染みの著者による新書。FIFAワールドカップ南アフリカ大会で日本代表が戦った4試合を各国のメディアがどう報道したのか、それを試合内容および試合結果と照らし合わせて分析し、日本が「次」へ進むための道を探る。参照されるメディアは、スペインのマルカやカナル+、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト、フランスのレキップ、ドイツのキッカーなど、フットボールファンならこれまたお馴染みの名前が並ぶ。
本書の序文は決勝トーナメントのパラグアイ戦の終了後から幕を開ける。内容自体も非常に印象的だが、構成としても効果的で、本書の性格・立ち位置を明確にしている。その一部を引用させていただく。
プレスカンファレンスの席に岡田監督が着き、質疑応答が始まったとき、「なぜ勝てなかったのか」と責める者はもういなかった。最後の質問に答え、岡田監督が直立して頭を下げると、会場の記者たちから大きな拍手が起こった。
持てる力のすべてを出し切った。
そんな充実感が、会場を包み込んでいた。しかし、ミックスゾーンに現れたあの選手だけは、周りとは違う熱を持ち続けたままだった、
本田はミックスゾーンが終わる最後の場所で立ち止まり、じっと記者たちの目を見据えて、牙をむき出すかのように答えた。
「日本人でも、パラグアイ人でもなければ、見ていない試合だった。見たくなるような選手はピッチには1人もいなかった。それがすべてです」
第三者にとっては、とても見ていられない試合––––。
本田はそのことに試合中から気がつき、誰よりももどかしく思っていたのだろう。日本の選手が持っている技術を考えれば、もっと良いサッカーができるはずだ、なのに決勝トーナメント1回戦という世界中が見ている大舞台で、日本はほとんど守ることと、走ることしか示せていない。
つまり、フットボールをできなかった、と。
ミックスゾーンから去る本田の背中を見たとき、もう試合の余韻に浸ることなどできなかった。
- 『世界は日本サッカーをどう報じたか』P.5〜6より
この引用部分は、前半が感傷的な内容で、後半がそれとの決別となっている。ここからは、いつまでも情緒的でいることに別れを告げ、「次」へとつなぐための道を探る著者の意思が感じられる。
その道標として使われる海外メディアの報道は、試合内容を反映した率直なものとなっている。だから結果に加えて内容の良かったデンマーク戦は絶賛されているが、それ以外の試合は酷評の対象にもなる。日本が勝利したカメルーン戦を、ドイツの実況と解説(ギュンター・ネッツァー)はその内容から「今大会のワーストマッチ」と言い切る。カナル+のアナウンサーはデンマーク戦を「日本は良いプレーをしている。ブラジルのようだ!」と絶賛した一方で、パラグアイ戦を「見るに耐えない」と評した。後者に関しては当然、日本だけではなくパラグアイも酷評されている。当たり前のことだけれど、美点は賞賛され、欠点は批判されるものだ。詳細は本書を読んでいただければわかるが、各国メディアの中立的な報道からは、日本の長所と課題とでもいえるものが再確認できる。
もちろん、「海外の目をそんなに気にしても仕方ない」という向きもあるだろう。著者もそれには自覚的であり、その点も次を目指すためのステップのひとつとして、本書の中で消化されている。
個人的な感想としては、かなり楽しんで読んだ。特に海外メディアの批判的なコメントが興味深い。FIFAが公開している各種データとセットにして読むと、的を射ていると感じる部分も少なくないし、なにより、デンマーク戦の絶賛と続くパラグアイ戦の酷評からは、前者にあって後者で失われてしまったものと、それに対する彼らの失望が見えてくる。仮に日本の試合に無関心だったら、彼らも批判なんてしないだろうし、だからこれは、ようやく日本も批判を受けるような立場まで来たということでもあるのだろう。
ぼく個人も、ワールドカップ前は日本代表に対して冷ややかな視線しか持ち合わせていなかったが、大会をとおして改めて興味を抱くようになった。次の4年に向けて、はたして日本はどんなフットボールを自分たちのスタイルとするのか。期待しつつ見ていきたい。
『アイドル領域』に初音ミク論を寄稿(C78、8/15、東地区P-55b)
告知です。
C78の3日目(8/15)に頒布されるムスメラウンジ(東地区P-55b)のアイドル評論同人誌『アイドル領域Vol.2』にゲスト参加しました。タイトルは『複製技術時代のアイドル消費』。およそ18,000字ちょっとのアイドル/初音ミク論です。
そもそもぼくはアイドルという文化・事象とあまり接点を持っていないのですが、ぼくが以前書いた『初音ミクは出来ちゃった結婚の夢を見るか? - hybrid issue(s)』に対してムスメラウンジ主宰の斧屋さん(id:onoya)が興味を持ってくださって、このような運びとなりました。
『アイドル領域Vol.2』の特集テーマは「アイドルと身体」。ぼくもそれにあわせて、アイドルという存在についてぼくなりの考えを巡らせ、その上で敢えて初音ミクをアイドルと比較・検討しました。といっても、それは「キャラクターとしての初音ミク」と「アイドルのキャラクター性」の比較ではありません。ベースはあくまでアイドルの成り立ちとその身体性についてであり、その上で初音ミクの成り立ちとその身体性の無さはアイドルとどう比較できるのかを考え、両者の差異がどういった文化の違いを生むのか、また、その差異にもかかわらず近しい部分はどこにあるのかといったことを検討しました。その意味において、ぼくの書いたものはアイドル論でもあり、同時に初音ミク論でもあると思っています。ちなみにタイトルはベンヤミン丸出しですが、ベンヤミンに加えてレッシグやボードリヤールにもふれつつ、議論を展開しています。
そして、本稿では初音ミク消費における基礎的な条件を示しています。書き上げたものを読み返してみると、ここから初音ミク創作の「自己言及性」につなげていけば、より体系的な議論として整理できそうです。「自己言及性」というのは、かつて『ユリイカ』の初音ミク特集(2008年12月臨時増刊号)で中田健太郎氏や円堂都司昭氏が参照してくださった以下のエントリでのテーマでもあります。これらも『アイドル領域Vol.2』のあとにチェックしていただけると、また楽しめるのではないかと。
それにしても書いていて非常に楽しかったです。ぼくが過去に書いた一連のエントリを楽しんでくださった方は、今回も同様に楽しんでもらえるものに仕上がっていると思います。どうぞご期待ください。
なお、『アイドル領域』はこれまでC77で創刊号が、第10回文学フリマで増刊号が発行されており、C78当日もバックナンバーがブースに置かれるようです。ぼくも既刊は読んでおり、その感想をいうと、内容自体は確かにアイドルについてのものですが、そこで使われるジャーゴンはオタク系文化で慣れ親しんだものでもあったり、あるいはそういったものも使われない、あまり閉塞感を感じさせない内容となっているので、アイドルオタク以外にも取っ付きやすい読み物だといえるのではないでしょうか。先述のとおり新刊のテーマは「アイドルと身体」で、目次からは、なかなかおもしろそうな雰囲気が立ち上っています。ぼくも一読者として楽しみにしています。
というわけで、8/15は東地区P-55bまでぜひお立ち寄りください。
Autechre @ Differ Ariake
都合により日付が変わる直前、雨にぬれながらディファ有明に到着。ビール片手にフロアに入る。
まずはClaude YoungのDJ。ビートの効いたトラックからメロディックなウワモノが印象的なトラックまで横断的に織り交ぜつつ、派手なイコライジングとフェーダー操作を駆使してフロアをわかせてくれた。個人的にはCarl Craigの別名義であるPaperclip Peopleの"Throw"を使った一連のミックスがハイライトだった。
- Paperclip People / Throw
そしてClaude Youngがプレイを締めくくったその瞬間、フロアが暗転し、ヘヴィなビートと言葉では表現のしようもないシンセサイザーが鳴り響き、熱気だけを残してそれまでの雰囲気が一瞬で塗り替えられる。この瞬間の鳥肌の立ち方は忘れられそうにない。照明ゼロの暗闇の中で繰り広げられるAutechreのライヴ。視覚が遮られることで研ぎすまされた聴覚に、変幻自在のビートとフレーズが次々となだれ込んでくる。最新作『Oversteps』はあまりにも美しいトラックが並んだアルバムだったけれど、この日のプレイはビートがかなりの比重を占めていた。おそらく7月に発売を控えた『Move Of Ten』がビートオリエンテッドだということも反映しているのだろう。
- Autechre / see on see
衝撃的な時間が過ぎ去った直後はJuan AtkinsのDJタイム。Claude Young同様にデトロイトのDJだということを感じさせるセット。けっこう早い時間帯にGreg Gowの"The Bridge"を持ってきていたのが印象的だった。
- Greg Gow / The Bridge (Late Night Grand River Mix)
Derrick MayはMix CDでもDommuneで中継されたセットでもこのトラックをピークタイムに持ってきてたよなあなどと思ったけれど、ミックスを積み重ねてAutechreの残した空気を徐々に塗り替えていく様子は、ベテランらしいプロフェッショナルなスキルを感じさせた。
体調があんまり優れなかったので最後までフロアにいることはできなかったけれど、DJやAutechreやクラウドと素敵な時間を共有できた。こういうのはクラブ系イベントならではの感覚だと思う。